滑空舎

超短編や童話のファンタジーをお届けする、ものがたり屋です。

【目次】

■嵐のシンデレラ

 複数の笑い声と共に投げ捨てられた片方の赤い靴は放物線を描くと川に落ち、そのまま下流へと流されていった。
 
 あと一時間もすれば、台風は私の住む地域にもやって来るらしい。
 自宅の窓から眺める外の景色は、思ったよりも穏やかだった。
 嵐の前の静けさというものだろうか。
 けれど胸の内の高揚感は少しずつ高まりつつある。
 昔からそうだった。
 台風が来ると気分がざわつき始める。
 妙に落ち着かなくなり、部屋の中をそわそわと歩き回るのだ。
 それは愛しい人を待ちわびる気持ちに似ているのかもしれない。
 と言っても、まだ恋を知らないのだけども。
 ならばこれは初恋なのか。
 しかも片思いだ。
 彼はまだ私の存在には気づいてはいない。
 その大きな目にはまだ私は映し出されていないのだ。
 だからなのか、台風が近づきにつれ、私は外に出たいという衝動に駆られた。
 彼の大きな目に見初められたくて、髪の毛を丁寧にブラッシングしてみる。
 そればかりかお気に入りのワンピースを引っ張り出して、身にまとい、くるくると回ってみたりした。
 今日こそ表に出てみようか。
 お母さんに見つかると叱られると思うのでこっそりと。
 片方の靴を無くしたこともその衝動に拍車をかけているのかもしれない。
 川下に流されていった赤い靴は、ガラスの靴のようなもの。
 台風はその靴を手に入れ、どんな女性が履いていたか夢想する。
 そしてその女性に会ってみたくなり、視線を地上に這わせるのだ。
 だから私は、その靴の持ち主として台風の前に現れなくてはならない。
 おとぎ話の結末のように、幸せになるためにも……。

 外は暴風雨に見舞われていた。
 風がかん高く響き、窓をガタガタと打ち鳴らす。
 とうとう台風が、彼がやって来たのだ。
 どこだどこだどこだ。
 彼は靴の持ち主を探している。
 居るわ、ここよ。私はここに居る。
 けれどいつまでも家に居ては見つけてくれない。
 もたもたしていたら、万が一にも間違った女性を見初めてしまうかもしれないのだ。
 なので私は決意をした。
 お母さんの目を盗み、片方だけの靴を履くと、風が吹きつけるドアを全身で押し開く。
 外に出ると一瞬体が宙に浮いた。
 ワンピースがあおられ、ブラッシングした髪の毛が乱される。
 この暴風は彼の腕。
 地上をまさぐり運命の人を探している。
 私は風に抗いながら、家から少しずつ離れていった。
 彼に手を差し伸べて貰うためにも、自分の存在をアピールするのだ。
 もう、靴は片方であろうとなかろうと意味は無かった。
 ぐしょ濡れで、水の中に足を浸しているかのようだ。
 それでも彼が指針としているのはこの小さな足に他ならない。
 と、その時。
 暴風の中を赤いものが横切っていった。
 靴だ。
 捨てられてしまった私の赤い靴。
 その赤い靴が風の中を舞っている。
 それは私の靴よ。持ち主はここに居るわ!
 すると赤い靴がこっちに向かって飛んで来た。
 その勢いに、私は思わず目をつむって受け止める。
 まぶたを開くと赤い靴はちゃんと手の中にあった。
 その靴は間違いなく私のものだった。
 ふと顔を上げると、風が穏やかになっていた。
 空を見上げると日が射し込んでいる。
 そうか、台風の目に入ったんだな。
 ということは今、私は台風に熱い視線を注がれている。
 私はそんな彼の期待に応えるべく、赤い靴をぬかるんだ地面に置くと、空いている足をそこにはめた。
 足はなんの抵抗もなくすっぽりと収まる。
 見て! 足がぴったりと入ったわ!
 その瞬間、暴風が急に吹きつける。
 私の体は風にからめ取られ、宙に浮いた。
 彼が私を見初めたのだ。
 私の体は彼の手にリードされてくるくると踊り、そのまま空へと昇って行く。
 そうして分厚い胸に引き寄せられると熱い抱擁を受け、私たちは固く結ばれたのだった。

■夏女

 よく晴れて、日差しが強く、風が無い日。
 僕はハンチング帽をかぶり、カメラを持って街に繰り出す。
 相棒のカメラは古い型のフィルムカメラだ。
 昔祖父が使っていたものが、祖母より宅配便で届けられた。
 僕が幼い頃、カメラを持って散歩する祖父に引っ付いていたことが思い出される。
 祖父は大人になったらカメラを譲ってやるからなというのが口癖で、祖父のカメラを構える姿にあこがれていた僕は早く大人になりたいと思っていたものだ。
 けれど成長するに連れて日常がいそがしくなり始め、いつの間にかカメラの存在を忘れてしまっていた。
 祖父はカメラを触らせてくれなかったから、十年以上経ってようやく手に持つことが出来たというわけだ。
 調べたところ、カメラは壊れておらず、フィルムを入れたら味のあるいい写真が撮れた。
 そうなると祖父のカメラ熱が隔世遺伝し、色々と撮ってみたくなる。
 そうして僕は休みの日になるとカメラを引っさげて、街に出るのが習慣になった。
 何を撮りたいという具体的な対象は無い。
 何か心に引っかかったものがあればレンズを向けて撮るだけだ。
 それでも今まで気づかなかったが、見慣れた街でも興味深いものがたくさんある。
 僕はそう言った、日常に紛れたものをすくい取るのが楽しくてしかたなかった。
 そんなある日、家で写真……自分の手では無く、お店で現像して貰ったものを整理していた。
 するとある一枚の写真が引っかかる。
 その写真のすみに一人の女性が写っていたのだ。
 肩と背中が露出した真っ白なワンピースを着ていて、肩越しに横顔が覗いている。
 その様も綺麗だなと思ったが、他の部分はそんなこと無いのに、その女性だけ揺らいでいるような感じがした。
 ピンボケだろうか。
 けれどぼやけているというよりも、ゆらゆらと揺れているという表現の方がしっくり来る。
 そう、まるで陽炎のように……。
 それが呼び水とでもなったのか、他の写真からも揺らぐ女性が見つかった。
 どこか浮き世離れしたその女性に、僕はしだいに惹かれるようになっていった。
 そうなるとしっかりカメラに収めたいと思うようになる。
 僕は街に繰り出すたびに、女性を探すようになった。
 それから何日経過したか分からない。
 ついにワンピースの女性を見つけ出したのだ。
 僕から数十メートル先の雑踏の中で、女性が背中を向けて歩いている。
 白いワンピースが日差しで浮かび上がっているが、不思議とそこだけ涼しげに見えた。
 せっかく見つけることが出来たのに、声もかけられず、距離を保ったまま後ろを付ける。
 それでも彼女は様々な表情を僕に見せてくれた。
 手かざしして空を見上げる。
 アパレルショップのショーウインドウを覗き込む。
 噴水の縁に腰をかけてどこか遠くを見つめる。
 僕はその様々な表情を遠くからカメラに収めた。
 しかしこのままではまるでストーカーではないか。
 やっぱりちゃんと声をかけてモデルになって貰った方が……。
 そう思い直して、一歩彼女の方へ踏み出した時、不意に強い風が吹いた。
 するとどうだろう。
 彼女の体が写真のように揺らめき、そのまま風の中に溶け消えてしまったのだ。
 僕はあ然として彼女が居た場所を眺め続けることしか出来なかった。
 それからも彼女を見つけることが出来た。
 だけどやっぱり強い風が吹くとかき消えてしまう。
 最初は幽霊とも考えたけれど、真っ昼間だし、おどろおどろしい感じは受けない。
 ならどんな表現がしっくり来るかと考えた末に、また陽炎という言葉にゆき当たる。
 よく晴れて、日差しが強く、風が無い日に揺らめき立つのが陽炎だ。
 そして陽炎は風に弱い。
 まさに彼女のことではないか。
 彼女を気味悪いと思わなかった。
 僕はますます彼女の撮影にのめり込んでいった。
 陽炎は夏が過ぎれば立たなくなるかもしれないから。
 だから今の内に彼女を収めるしか無い。
 そして初秋のある日、彼女を一陣の風が吹き消したのを最後に、彼女は現れなくなった。
 だけど僕には写真がある。
 家に帰り、アルバムを取り出し――アルバムを落とした。
 そんな……確かに前見た時には写っていたのに……。
 撮ったすべての写真から、まるでそんな存在など無かったかのように、彼女の姿がかき消えていた。

電子書籍「校舎のエデン」収録作

■空想い

 ふと気がつくと、向谷さんはいつも空を見ていた。
 窓際の席から、廊下の窓から、そして屋上から。
 屋上は締め切りではないので誰でも利用できる。
 それでも利用者はまばらだ。
 僕みたいに静かにお弁当を食べたいとか、向谷さんみたいに空に近づきたいというように、孤独を愛する人が集っているような気がする。
 今日も僕は屋上でお弁当をつつきながら、横目で向谷さんの様子を観察していた。
 向谷さんは屋上の真ん中に立ち、顔を上げてたたずんでいる。
 時折両手を広げたり、片手をかざしたり、くるくるとその場を回ったり。
 何が楽しいのか分からない。
 僕も空を見上げてみるのだが、そこには青空が広がっているだけだ。
 ふと向谷さんが僕に気づいた。
 ヤッホーと手を振って来るので、僕もぎこちなく手を振り返す。
 けれどすぐに僕の存在なんて忘れてしまって、また空を見上げることに没頭するのだ。
 そんなある日、雨で屋上にも出られず、僕は自分の席で独り、お弁当を食べていた。
 向谷さんも窓際の席で、つまらなさそうに外を眺めている。
 とその時、一人の男子が青い下敷きらしきものを持って向谷さんの方へ歩いて行く。
 その男子は向谷さんに声をかけると、向谷さんの真横の窓ガラスに青い下敷きを貼り付けた。
 そこで初めて気がつく。
 その下敷きは青空を模したものであることに。
 退屈そうだった向谷さんの表情がパッと明るくなり、その男子と楽しそうに話し始めた。
 僕は食べ終えたお弁当を片付けると席を立つ。
 向かった先は屋上だ。
 塔屋の扉を開けると、雨は小振りになっていた。
 上履きが濡れるのも構わず僕は外に出て、曇天の空を見上げる。
 両手を広げようとも、片手をかざそうとも思わない。
 ましてやくるくる回ったりなんかしたいとも思わなかった。
 つまらない。
 空は僕に微笑みかけてくれなかった。
 
 教室に戻ると、先ほどの男子の姿はなかった。
 その代わりに、向谷さんは女子グループに囲まれている。
 何さっきの。少女漫画の主人公にでもなったつもり?
 不思議ちゃんってとこに興味を惹かれただけなんだから図に乗らないでよね。
 うつむいて聞いていた向谷さんは、不意に席を立つと、女子たちの笑い声に追い立てられるように走って教室を出て行った。
 それっきり授業が始まっても向谷さんは現れず、放課後になってしまった。
 僕が塔屋の扉を開くと、雨は止み、空には天使のはしごがかかっていた。
 屋上の中央にはいつものように向谷さんがたたずみ空を見上げている。
 僕が屋上に現れたことに気づくと、小さく手を振り――バイバイとささやいた。
 えっ?
 突然の別れの挨拶に僕は戸惑う。
 向谷さんが再び空を見上げると――、突然スカートの中から白い煙が吹き出し、そのまま宙に浮き始めた。
 そう、それはまるでロケットだ。
 スカートを噴射口にして、向谷さんは飛び立とうとしている。
 待って……待ってよ。
 僕は煙の圧力に抗いながら向谷さんの方へ近づいてゆく。
 けれど向谷さんは微笑むだけで、その体は少しずつ少しずつ高くなり始めていた。
 ふと、向谷さんが僕に手を差し伸べた。
 僕は手を差し出そうとして――空宙を握りしめた。
 向谷さんは少しだけ悲しそうな表情をすると、それを振り払うかのように真上を向く。
 そして――ドンッ! と弾けるように飛び立ち、そのまま雲を突き抜け、地上から姿を消したのだった。
 
 それ以来、僕はいつも空を眺めている。

■夏声

 夏はうるさい。
 ジリジリと照りつける太陽。
 じめっとした湿気。
 降り注ぐ蝉時雨。
 苛立って鳴らされる車のクラクション。
 何もかもが耳障りだ。
 私は暑さと騒音に辟易しながら、歩道を歩いていた。
 やがて横断歩道の手前で止まる。
 赤信号だ。
 しかし日射しから逃れる陰は無い。
 歩くのをやめるとますます音がわずらわしくなった。
 ふとその時、視界の隅に赤いものが映り込む。
 なんだろうとそっちを向くと、紅白のストライプのビーチパラソルが立てられていた。
 「なんでこんなところに」と疑問に思う。
 でも、その下は陰となっていてとても過ごしやすそうに思えてならない。
 私はそろそろとビーチパラソルに近づくと、その日陰に潜り込んだ。
 するとどうだろう。
 あれほどやかましかった蝉時雨がピタリと止む。
 そればかりか、車の音も一切しない。
 街の騒音がまったく聞こえなくなったのだ。
 いや、唯一スマホの着メロだけが鳴っている。
 そのメロディーは病院に居るはずの彼氏からの着信を知らせるものだった。
 でも、そんなー、彼は今、昏睡状態なはずなのに……。
 もしかして目が覚めたのかと期待を込め、耳にスマホをあてがう。
 もしもし。
 しかし聞こえて来たのは、打ち上げ花火の音だ。
 遠くの方で火薬がばらけている音がする。
 いつか見上げた花火の音の中から彼の声を探ったけれど、どこにも私の名を呼ぶ声はなかった。
 その時、ざぁぁぁと風が吹き付ける。
 ビーチパラソルが強風にあおられ、宙に浮かび上がった。
 そしてそのまま青い夏空へと舞い上がり消えていってしまう。
 そのとたん、思い出したように蝉時雨と車の音が蘇った。
 スマホからはもう花火の音はせず、ただただ私はたたずむより他ない。
 夏に満ちた音からは、彼の鼓動は消えていた。

■雨渡り

 「あれ?」と私は思いました。
 一年前、おばあちゃんちに来た時には、その庭の片隅に綺麗なアジサイの花が咲いていたのですが、それが見当たらないのです。
 おばあちゃんちの庭は決して広いとは言えませんでしたが、庭に面して張り出された縁側に座っていると、不思議と心が穏やかになるのでした。
 一年前にここを訪れた時、私は今そうしているように縁側に座り、しとしとと雨が降る様子とアジサイを静かに眺めていたのです。
 今年も雨の季節となり、ここの庭のアジサイを楽しみにしていたものの、肝心の花がなく、刈り取られてしまったのかと残念に思いました。
 それでも静かに降る雨を縁側から眺めていると気分が安らぎます。
 足をぶらぶらさせながら、こ一時間ばかり座っていたでしょうか。
 すると庭に一人の女の子が入って来ました。
 私は目を奪われました。
 女の子が差している傘の表面には、見事なアジサイの花が咲き誇っていて、まるでアジサイの花を差しているかのようなのです。
 女の子は私に気づいているのかいないのか、そのまま庭の片隅に行くと、傘を差したまましゃがみ込んでしまいました。
 それからしばらく経っても女の子はピクリとも動きません。
 私は興味深く眺めていると、今度は男の子が庭に入って来ました。
 その男の子もまたアジサイの花を傘に咲かせていて、女の子のそばに行くと、くっつくようにしゃがみ込みます。
 それからもう一人女の子が現れ、先の二人と同じように庭の片隅にしゃがみ込んでしまいました。
 そこで私は気づきました。
 庭の片隅に傘が咲くその光景は、 一年前に見たアジサイの花のようであるということに。
 ひょっとしたらこの子たちは雨渡りなのかもしれない、と考えました。
 雨の季節になるとアジサイの傘を差して素敵な庭を探し求めます。
 そうして気に入った庭があればそこに忍び込み、アジサイの花を咲かせるのです。
 この子たちがここにいるのが一日だけなのか、一週間以上いるのかは分かりません。
 でもどんな素敵な庭であっても居着くことは無く、きっと渡り歩くのだと思いました。
 人数が増えることもあるでしょう。
 逆に一人の時もあるかもしれません。
 運良く子どもたちが咲かせるアジサイを目に留めた者だけが、その落ち着いた風情を味わえるのです。
 そこで自分も傘を差して子どもたちと一緒にしゃがみ込んでいる様子を思い浮かべると、雨の日でも楽しくなるのでした。

■北帰行

 わたしが暮らす家はあたたかい。
 両親も兄も、みんなわたしのことを大切にしてくれていた。
 でもそれゆえに、やさしさが時々よそよそしく感じることがある。
 もしかしたら、わたしはこの家の子どもではないのではないか。
 世間というきびしい冬をやり過ごすため、一時的に暮らしているだけのような気がしていた。
 そんなことをいつも、湖のほとりにある公園でぼんやりと考えている。
 公園でわたしの目に映っているのは、貸しボート屋のわきにつながれているスワンボートだ。
 彼(彼女?)もまた、どうしようもないさびしさを抱えているようだった。
 本来あたたかくなり出したこの時期、白鳥は日本をはなれて北に帰りはじめる。
 だけどここのスワンボートはロープでつながれて飛び立つこともままならないでいた。
 それどころか、飛び方さえ忘れているかもしれないのだ。
 ひとりぼっちなスワンボートに同情したわたしは、おこづかいがゆるす限り、借り受けることにしている。
 空があかね色にそまりゆく中、貸しボート屋が閉まるまで、わたしはスワンボートをこぎ続けた。
 するとスワンボートは、折りたたまれていたつばさを広げ飛び上がろうとがんばる。
 わたしはかけ声をかけて応援し、ペダルもけんめいにこいだ。
 その努力がみのってか、ふわりと湖の表面から浮かび上がるようになって来た。
 そうなると成長は早い。
 あれよあれよという間に、湖の端から端まで飛び続けることに成功した。
 もうそろそろ、計画を実行するころ合いかもしれない。
 わたしとスワンボートは、自分たちの本来いるべき場所をめ目指して旅立つことにした。
 ふるさとがどこかは分からないけれど、かつての船乗りたちが星の位置をあてにしたように、きっと運命がわたしたちを導いてくれるはず。
 そしてついに計画を決行する。
 食料などをつめたリュックを背おったわたしは、早朝に公園をおとずれた。
 まっすぐに向かった先は貸しボート屋だ。
 わたしはこっそりと桟橋に立ち、スワンボートをつないでいるロープをほどいた。
 スワンボートも旅立ちに気分がたかぶっているみたい。
 わたしは相棒に乗り込むと、リュックをとなりに置き、ゆるりゆるりとペダルをこぎはじめた。
 着込んでは来たものの、いてついた朝の空気が肌を刺す。
 そのつめたさは速度が上がるごとにまし、湖をはなれると強風となった。
 さむいことはさむいけれど、気分がたかぶっている今のわたしにはつらくない。
 風を切るスワンボートはぐんぐんと上昇し、町を見下ろせるまでの高さになると安定した。
 上空からお世話になった家を探す。
 赤い屋根を見つけると、今までありがとうと心からお礼を言った。
 スワンボートはすいすいと空をすべってゆく。
 この調子なら本当の居場所にすぐたどりつけるかもしれない。
 とは言え、目的地までの道のりはスワンボートの本能に任せているようなものだから、どこまで飛ばないといけないのか分からなかった。
 一日はあっという間に過ぎ去り、わたしたちはどこかの池に着水する。
 今夜はここで寝泊まりね。
 リュックからスナックバーを取り出し、ペットボトルの水とともにおなかに流し込んだ。
 あとはスワンボートをねぎらってから、ボートのなかで眠る。
 さむくて心細かったけれど、今さらあとには引けない。
 次の日も次の日も、わたしはペダルをこぎ、スワンボートも空高く飛びつづけた。
 ところがある日、春のあらしに見まわれる。
 吹きつける向かい風に邪魔されて、ペダルが重いためにこぐのもむずかしくなった。
 スワンボートも思うようにはばたけず苦労しているようだ。
 これではだめだと、まだ日が高いものの、地上に降り立つことにした。
 ところが、首を下げたときに強い突風がスワンボートをからめ取り、わたしたちはくるくると木の葉のように舞い上がる。
 天地がどちらかさえ分からなくなり、わたしはそのまま気を失った。
 気がつくと周囲は霧におおわれていた。
 スワンボートはどこかの水面に浮かんでいるのはたしかだ。
 地面に不時着しなかったことに安心しつつも、ここがいったいどこなのか分からないため不安がわき起こる。
 と、そのとき。
 前方にゆらりと影が生まれた。
 ひとつ、ふたつ、ううん、もっとたくさんいる。
 右も左も分からないので、期待を込め、その影の方へとスワンボートを進めた。
 はっきりしつつある影の形に見おぼえがある。
 そう、わたしが今乗っているスワンボートと同じではないか。
 霧がうすまり、視界がひらけて飛び込んで来た光景は、真っ白いスワンボートの群れだった。
 たくさんのスワンボートたちが同じ方向を向いて水面を泳いでいる。
 もしかしてこれは、スワンボートの北帰行?
 本物の白鳥のように、スワンボートもふるさとへと旅立っていたのね。
 わたしのスワンボートが一声鳴くと、群れのあちらこちらからも鳴き声が発せられる。
 そうか、この子の居場所はもう見つかったんだ。
 もうひとりじゃない。こんなにも仲間がいるんだものね。
 となるとわたしはお荷物になる。
 スワンボートが向かう先はスワンボートのふるさとであり、人間のわたしが行くべき場所ではないだろう。
 だからわたしはリュックを背おうと、相棒をひとなでしてから、水面に飛び込んだ。
 ためらいはなかった。
 スワンボートはもうわたしがいなくてもやっていける。
 スワンボートのしあわせをねがうわたしは青い水の中をゆっくりと沈んでいった。
 ふしぎと息苦しくはなかった。
 むしろ母親のおなかにいるようで安心する。
 やがて真下に光りが見えて来た。
 わたしは流れに逆らわず、その光りへとすべり込んだ。

 目がさめるとお母さんの泣き出しそうな顔があった。
 ああ、良かった。意識を取り戻してくれたのね。
 わたしはいったい……。
 旅に出たはずなのになんでお母さんがいるの?
 あなたは湖のほとりに打ち上げられていたところを助けられたのよ。
 そうか、戻って来てしまったのね……。
 お母さん、けっきょくわたしは自分の居場所を見つけられなかったよ。
 なに言ってるの! あなたの居場所はわたしたち家族がいるところじゃない!
 それを聞いたわたしの目からなみだがこぼれ落ちる。
 そっか、わたしはたどり着けたんだ。本来いるべき場所に。
 すべては思いすごしで、わたしがお母さんたちの子どもであることに間違いはなかった。
 お母さん、ごめんなさい。
 いいのよ。わたしはあなたがいてくれたらそれだけでしあわせだから。
 もう旅立とうと思うことはないだろう。
 わたしはずいぶん遠回りをして、ようやく自分の居場所を見つけた。

■手を伸ばせば一番星

 その家の小さな庭にはブランコがあった。
 夕闇がにじみ始めてもブランコの揺れる音が止むことはない。
 風の仕業でも、ましてやお化けの仕業でもなく、独りの少女が踏み台に立ち、ブランコを漕いでいたのだ。
 少女――可南子は、鎖を掴み体を揺らしながら空をじっと見上げている。
 やがて、ぱっと表情が明るくなったと思えば、「見ぃつけた!」と喜びの声を上げた。
 可南子の視線の先、茜色の空には一粒の星が瞬いていた。
 一番星である。
 今日の一番星は何かしら?
 金星ではないみたい。木星かしら……。あっ、ひょっとして土星?
 ううん、なんだっていいわ。
 一番星が繋ぐ天国に行けさえすれば。
 可南子が前後に体を大きく動かすと、ブランコの振り幅も大きくなってゆく。
 茜色の空が眼前に迫り、一番星に手が届きそうになる。
 一番星は天国に通じる扉の取っ手。
 そこに届けば、向こう側に行けるのだ。
 いよいよブランコが最大にまで振り切った。
 可南子は手を放すタイミングを計る。
 イチッ! ニィッ! サンッ!
 そーれッ!
 可南子は踏み板を力強く蹴った。
 鎖が手から離れ、可南子の体は茜色の空へと勢いよく飛び出す。
 一番星へと手を伸ばす可南子。
 すると一番星の周辺が長方形に切り取られ、黒曜石の扉が現れた。
 可南子の手が、指が、その扉の取っ手に触れるか触れまいかというところまで達したが――、急に失速し、少女の小さな体は地上へと落下してゆく。
 ああ、今日も駄目だったのね。
 可南子の目から涙があふれ、中空へとこぼれた。
 そして重力に従うままに落ちた場所は、客で埋まった観客席だった。
 観客は手慣れた様子で、可南子の軽い体を受け止める。
 今日は惜しかったね!
 次こそ成功するさ!
 君なら大丈夫!
 観客席のあちらこちらから声援が贈られる。
 可南子は客たちの真上を泳ぐように運ばれながら現世へと返されようとしていた。
 ぼんやりと考える。
 本当に一番星に届くのだろうか。
 家と、小さな庭と、そしてブランコを遺してお空に旅立ったパパのもとへたどり着けるのだろうか。
 気がつくと、可南子は庭に打ち上げられていた。
 力なくもそもそと起き上がると、スカートのポケットから何かがこぼれ落ちる。
 あめ玉だ。
 ポケットの中には観客たちが詰め込んだと思われるお菓子で一杯だった。
 可南子は振り返る。
 だがそこに広がるのは父親の居ない寂しい世界。
 観客などどこにも見当たらなかった。
 あの人たちはまぼろし?
 いつもわたしを受け止め応援してくれる。
 今回も失敗して落ち込んではいるけれど、少し胸が温かかった。
 そうよ、次は必ず成功させてみせる。
 と、ポケットに手を入れて探っていたら、硬い紙のようなものまで入っていることに気がついた。
 なんだろうと思い取り出してみると、どうやら写真のようだ。
 しわの寄った写真を見た可南子が驚きの表情を浮かべたかと思うと、今度は顔をくしゃくしゃにして泣き出しそうになる。
 それには可南子の父親が映っており、愛してるよという走り書きまでされていたのだ。
 仕事に追われて構ってくれないはずの母親は優しげに微笑んでいて、可南子も幸せそうに笑っている。
 そこにはかつての幸せな家族が焼き付けられていた。
 これは確か、パパのお棺に納めたはず……。
 なのにどうしてポケットに?
 可南子はもう一度背後に振り返り、目を凝らしてみるが、それでも観客席は見えて来ない。
 パパも……あそこに居たの?
 もしかして、あの観客席では死者たちが生者を見守っているのかもしれない。
 生きゆく者たちの意志を尊重しながら。
 だからそれが負のベクトルであったとしても応援してくれた。
 だったらパパも、いつでもわたしのことを見てくれていた?
 パパは遠い異界に居るんじゃない。現世のすぐ隣で過ごしている。
 そう思うと、背筋の伸びる心持ちになった。
 観客席のパパを退屈にさせない、楽しい人生を送らないといけないわね。
 可南子はもう一度ブランコに乗ると立ち漕ぎを始める。
 もう空には夜が降りていて、一番星は見当たらない。
 それでも良かった。
 可南子が目指すのはもう彼岸ではない。
 開けなければならない扉は、過去ではなく未来。
 今度は希望が可南子の道しるべだ。

■さまよえる家

 動物園でフタコブラクダを見たとき、さばくは遠いところだと思っていた。
 でも先生は、三月から四月にかけて飛んで来る黄色い砂は、さばくの砂なんだよと教えてくれた。
 だから黄砂におおわれた街中でしんきろうを見たってふしぎじゃない。
 ぼくの視線の先でゆらゆらと、家族の住む家がうかび上がっていた。

 ぼくには両親がいない。
 兄弟は――施設の仲間をそう呼ぶのならそうなるだろう。
 当たり前のように親のいる連中は、そのことを鼻にかけ、ゆうえつ感にひたっているが、それがどれだけしあわせなことかまでは分かっていないように思われる。
 連中は親にわがままも言うし、悪口もはく。
 そんなようちな連中を見ていると、世の中の不公平さをなげきたくなる。
 ぼくに親がいたらきっと孝行したはずだ。
 たった一組の存在として大切にしたに決まっている。
 それができないから親不孝なやつらにげんこつをくらわすのだが、理解されずにらんぼうものあつかいされていた。
 なのでひとりでいることが多かった。
 らんぼうもののレッテルは施設の兄弟たちをもおびえさせている。
 お前たちにふり上げるこぶしは持ち合わせていないと言っても信じてはくれないだろう。
 でもまぁ、それでもかまわない。
 ひとりでいるときの方が想像力を自由にはばたかせることができるのだから。
 とくに三月から四月にかけて、ぼくのまぼろしを見る力はもっとも強くなる。
 なぜならば、砂によって黄みがかった街中で、しんきろうを目にするから。
 そのまぼろしは平屋の形を取り、はるか前方でゆらゆらとゆらめいていた。
 さらに目をこらすと、青いしばふの庭に一組の夫婦と犬があらわれることもある。
 その家族はとてもしあわせそうなのだが、子どもはいないようだった。
 ぼくはしんきろうを目にするたびに夢を見る。
 あの夫婦の子どもになれたらどんなにしあわせだろうと。
 いや、もしかしたらほんとうにぼくの両親なのかもしれない。
 両親の顔はおぼえていないが、そんな気がしてならないのだ。
 何より、ぼくにしか見えないということがかくたる証拠ではないか。
 しんきろうは黄砂の量が多いほどはっきりとした形を取る。
 ある日なんてすぐに足をのばせばたどりつけそうだったので、思わずかけ出してみたのだけれど、いつまでたっても距離はちぢまらず、けっきょく手がとどくことはなかった。
 やはりあれはまぼろしでしかないのか。
 何度もそんなことをくり返したのだけど、手に入らないしあわせを前にしてもあきらめ切れなかった。
 カレンダーも四月にさしかかり、今年もしんきろうは見おさめかとざんねんに思っていると、今年一番の黄砂が日本列島にふりかかった。
 朝起きて外に出たら、街は砂にしずみ、まぎれもないさばくと化していたのだ。
 建物と建物のさかいはなくなり、砂丘がこんもりともり上がっているだけ。
 そしていつものしんきろうは、いつになく確かな形を取り、本物のようにたたずんでいた。
 ぼくはかつてない期待にはじかれ、しんきろうに向かってかけ出した。
 今日こそあそこにたどりついてみせる!
 しんきろうは施設からどんどんはなれ、河の手前にまで寄った。
 まるでえものを追いつめた気分になり、ぼくはねらいをすませて一気に加速する。
 ところがしんきろうは河などおかまいなしに遠ざかってしまった。
 向こう岸でゆらめくさまは、小馬鹿にされているようである。
 ぼくも橋をわたり、さらにしんきろうを追うと、砂丘のてっぺんからつき出たビルが多くなって来た。
 ビルのかべに今度こそ追いつめたかと思ったら……、とつぜんしんきろうが消えうせる。
 ど、どこに行った!
 周囲を見わたせど影も形もない。
 まさかこんな結末をむかえようとはと、思わず空をあおいだら――なんとビルの屋上でしんきろうの家がゆらめいているではないか。
 その後もしんきろうとの追いかけっこが続き、とうとう街外れにまでやって来てしまった。
 あたりに建物はなく、しんきろうの家がぽつんとゆらめいている。
 走りに走ってさすがのぼくも息が切れ、口の中では砂がじゃりじゃりと音を立ててあざ笑っていた。
 やはりしょせんはまぼろし。人の足ではたどりつけないというのか。
 ぼくは絶望にかられ、ひざからくずれ落ちた。
 だけど、だけど、ああ、まぼろしの家族はぼくに向かって手をふっている。
 行きたい、あそこへ。だれかぼくを連れて行って……!
 と、そのときだった。
 うしろで物音がしたのでふり向くと、そこにはいつか動物園で目にしたフタコブラクダがたたずんでいた。
 ラクダはぬれた目でぼくを見つめている。
 もしかして、動物園のさくも砂で役に立たなくなったのかもしれない。
 ラクダのうったえかけるようなまなざしを見つめていると、ある考えをひらめいた。
 そうか、人の足がだめならラクダにたよればいいんだ。
 こいつほどさばくなれしている動物はいないもの。
 ぼくは立ち上がるとラクダに近寄る。
 ラクダはおびえることなく、まるで早く乗れとでも言いたげにブルルと鳴いた。
 ラクダのわきに立つと、何度か失敗しつつも、ようやくふたつのコブの間にお尻をおさめることに成功する。
 さぁ、今度こそ!
 よこっぱらをかるくけると、ラクダはのそりのそりと歩き出した。
 するとどうだろう。
 歩みはおそいものの、しんきろうとの距離が少しずつ少しずつちぢまって来たではないか。
 庭では母さんが立ち、父さんがその肩をだき、犬がしっぽをぶんぶんとふっている。
 ついに庭先にとうちゃくし、ラクダから飛び降りると、父さんたちはにこにことほほえみながら両手をひろげた。
 た、ただいま!
 おかえりなさい……。
 ふいに強風がぼくたちにふきつけ、大量の砂がしんきろうにおおいかぶさった。
 しんきろうはゆらめき、両親と犬と、そしてぼくをのみこんで消えはじめる。
 さいごに、フタコブラクダの「さようなら」という声を聞いた。

■三月の客

 今年に入ってすぐ、おじいさんが亡くなった。
 一つ屋根の下に住み、居るのが当然のような存在だったのに。
 とは言え、おじいさんと親しかったかと聞かれるとそうでもない。
 おじいさんは気難しく、また、木造家屋の一角を洋風に改装して、自分の趣味の世界で生きているようなところがあったので近づきがたかったのだ。
 ところがそのおじいさんが残した遺言状に、ぼくにドアを相続させると書かれてあった。
 おじいさんが日々を過ごしていた洋風の一角には確かに特別なドアが備え付けられている。
 お父さんに教えて貰ったんだけど、僕が生まれる前、まだおばあさんが生きていた頃に、おじいさんたちはヨーロッパ旅行に行ったらしい。
 ところがおじいさんは、その旅先で泊まった安宿のドアが大変気に入った。
 そのドアにはライオン型のノッカーが取り付けてあって、おじいさんはその質感やデザインにほれ込み、宿の主を説きふせて半ば強引にドアを買い取ったというのだ。
 ぼくはドアノッカーだけでいいんじゃないかと思ったけれど、このノッカーが映えるドアはこのドアしかないと言い張ったみたい。
 そうしてドアは船便で遠路はるばる日本に運ばれ、我が家に取り付けられた。
 そういう経緯があるドアを、おじいさんはぼくにくれるという。
 相続の話しを聞いたぼくの心境は……。
 正直、かなりうれしかったりする。
 実は以前からドアのことが気になっていたんだけど、おじいさんが居るからしかられるのがイヤで、うかつに近づくことはできなかった。
 相続されたあと、ぼくはよろこびいさんでドアへとおもむいた。
 あめ色のドアの中央に、ライオンの形をしたドアノッカーがはめられている。
 おそるおそるライオンがくわえた丸い取っ手をつかんでみるとひんやりとしていた。
 つばを飲み込み、ノッカーをドアに打ち付ける。
 コーンコーン
 思っていた以上に音がひびいたことにおどろいて、すぐにノッカーを手ばなしてしまった。
 気持ちはすぐに落ち着き、もう一度ノッカーをつかもうとして……止めた。
 ぼくはこのドアの主人なんだ。
 自分でノッカーを叩くより、お客に訪問して貰いたい。
 ノッカーが打ち鳴らされ、ぼくが応対するさまを思い浮かべるとわくわくした。

 三月に入っても寒風吹きすさび、寒い日が続いている。
 ドアを相続してから一ヶ月経ったけれど、お客の訪問はまだなかった。
 時々風がいたずらをしてノッカーが鳴ることもあり、そのたびにぬか喜びして、ちぇっと唇をとがらせる。
 そんな折り、お父さんたちが遠くの通夜に出かけることになり、ぼくはひとりで夜を過ごすことになった。
 その晩はいつにも増して風が強かった。
 ぼくは自室で耳をすまし、ノッカーの音を待ちわびる。
 けれど一向に鳴る気配はなく、退屈であくびだけがこぼれた。
 そりゃそうだよね。ひとりだから静かで音は聞き取りやすいけど、夜中にお客が来るはずがないもの。
 テレビを見る気にもならず、もう寝てしまおうかと思った時だった。
 コーンコーン
 今、ノッカーが鳴った?
 いや風のいたずらかもしれない。
 ぼくがもう一度耳をすますと……。
 カーンカーンカーン!
 激しくノッカーが打ち鳴らされる。
 風じゃない!
 誰かが早く出て来いとさいそくしているんだ。
 ぼくははーいと大きな声を上げ、急いでドアへと向かった。
 カーンカーンカーン!
 はいはい、今出まーす。
 一体誰だろう。
 ぼくは胸を高鳴らせながらロックを外し、ドアを開けた。
「遅い!」
 ドアを開けて早々怒鳴り声をあびる。
 ぼくの前には、髪の毛と髭がつながった、ライオンのような男が不機嫌そうに立っていた。
「まったく、客をいつまで待たせるんだ!」
 ぼくは剣幕に身をすくませ、すみませんと頭を下げる。
「まぁいい、早速上がらせて貰うぞ」
 えっ? そんなの困りますと言っても聞かず、ライオン男はぼくを押しのけ、ずかずかと上がり込んでしまう。
 男はそのまま廊下を進み、まるで知っていたかのようにおじいさんの部屋の前に立ち、ドアを開いた。
「ふむ、建物はちんぷでも、部屋は悪くなさそうだな」
 ぼくはどうしたものかとおろおろするばかり。
 男が部屋の中に消えたと思いきや、
「腹がへったぞ! 食べ物を持って来い!」
 えっ、えーと……。
「早くしろ!」
 は、はいぃ……!
 ぼくは弾かれるように駆け出し、台所へと向かった。
 とりあえずありったけの食料をかかえて、男のもとに戻る。
 男は食料を受け取ると、礼も言わずむしゃむしゃと食べ始めた。
 その食べっぷりにあきれていると、ぎろりと目玉を向けられる。
「馬鹿! 飲み物も持ってこんかい!」
 あ、はいぃ……!
 オレンジジュースのペットボトルをわたすと、キャップを取り、そのまま口へと運ぶ。
 んぐんぐんぐ
 あっという間にペットボトルは空になり、男はボトルを投げて寄こした。
「ふん、甘ったるいな。酒もないのかここは。サービスがなっとらん!」
 すみません……。
 それでも男は満足することを知らず、次々と要求を突きつけられる。
 デザートを持って来い。口直しにしぶいお茶を入れろ。歯ブラシを用意しろ。タオルも忘れるな。風呂に湯を張れ。背中を洗え。寝間着を用意しろ。髪を乾かせ。ベッドメイキングしろ。マッサージしろetc.
 真夜中になった頃には、すっかりへとへとになっていた。
「さて、寝るとするか。ご苦労、もう行って良し」
 お休みなさいませ……。
 ようやく男から解放され、ぼくは疲れた体を引きずり自室に帰ると、ベッドに倒れ込んだ。
 そしていつの間にか眠り込み、次に目を覚まして時計を見たら、八時を回ろうとしているではないか。
 放って置かれた男はさぞかし怒っているだろう。
 身支度もほどほどに急いでおじいさんの部屋に向かったら……、部屋の中に男の姿はなかった。
 そうか、帰ったのか。
 拍子抜けしたぼくが部屋を見わたすと、小綺麗に片付けられていた。
 意外とりちぎなんだな。
 うん? ととのえられた布団の上に何か黄色いものがある。
 近づいてみると、そこには黄色い花の房が置かれてあった。
 のちに調べてみると、ミモザだということが分かる。
 きびしい冬の終わりを告げ、あたたかな春が来たことを知らせる花だそうだ。
 部屋を出て、くだんのドアから表に出てみると、放射冷却で凍てついた空気に身をふるわせる。
 だけど空は青くすんでいて、日差しは春の陽気を感じさせた。
 ライオン男さんは満足してくれたのだろうか。
 ぼくの初めてのお客さま。
 嵐に見舞われたような忙しさだったけれど、今の気分はわりとすがすがしい
 彼は冬の精霊だったのかもね。
 ちょうど春の精霊との交代の時期であり、そのためあわただしく追われ、気が立っていたのだ。
 また来年、羽を伸ばしに来てください。
 でも今年は、次に春をお客さまとしておむかえしたいな。
 ぼくはドアノッカーの上に「四季ホテル」というプレートを掲げ、精霊たちの到来を待ちわびている。

■ブレイブハート

 たんぽぽの、白いわたぼうしに息を吹きかけたら、ふいに逆風が吹きつけてわた毛をあびてしまった。
 耳に入ったかもしれない。
 そのせいだろうか。
 ライオンがほえている。
 ぼくの頭の中で。
 ほえるって言っても、近所のゴローと違ってうるさいことはない。
 むしろいさましく、それを聞いているだけでふしぎと勇気がわいて来る。
 ぼくはおくびょう者だ。
 人と目も合わせられないし、自分の意見を口にすることもない。
 だけどライオンが頭に宿ってから、ぼくに変化が現れはじめた。
 朝起きると、食卓で予習をやらされるのだけど、その日はお母さんに何を言われてもだんまり。
 とうとうお母さんはヒステリーを起こしたけれど、ライオンがほえてくれるからなんとも思わず涼しげに聞き流す。
 そんなぼくにしびれを切らし、お母さんは床をふみ鳴らしながらリビングを出て行った。
 ぼくはキッチンでかってに食パンを焼き、いつもはちょびっとだけのバターをたっぷりぬりたくってほおばった。
 オレンジジュースも三杯おかわりし、おなかが満たされるとのんびり学校の身じたくをする。
 登校も、すがすがしい朝を楽しみながらゆっくりと。
 すると案の定ちこくしたわけだが、先生が何を言おうとライオンの声にかき消されて聞こえなかった。
 クラスメートたちの視線を受けながら、すたすたと席につく。
 先生はまだ何か言いたげだったけど、首を振ると朝の会を続けた。
 一時間目が終わると、やはりカンタのやつがちょっかいをかけに来る。
 でもぼくには何も聞こえない。
 最初のうちはにやついていたカンタの顔がしだいにいら立ちはじめ、机をバンッと叩いたりもしたけど、ほおづえをついたぼくはあくびをひとつこぼしただけだ。
 ところがガンッという衝撃でほおづえがくずれた。
 カンタが机をけっ飛ばしたのだ。
 そのとき、ライオンの声が変わった。
 グルルルという低いうなり声。
 ぼくの心も怒りに満たされてゆく。
 立ち上がると、ようやく反応があってうれしそうにしているカンタの顔を目がけ、げんこつを打ち込んだ。
 それから、鼻血を出したカンタは保健室に運ばれ、先生が怒り、お母さんまで呼び出されたけれど、ぼくに大人たちの声は届かない。
 ライオンがあいかわらずほえてくれているから。
 家に帰され、その後もお母さんのヒステリーを涼しげに受け流していたら、ついにめそめそと泣き出してしまう。
 あの人がいてくれれば……。
 アノ人はぼくたちのことなんかどうでもいいんだ。
 ぼくはお母さんのためと思っていい子でいたけれど、ぼくだけが我慢しなければならないなんてばからしくなって来た。
 アノ人も好きかってやっているのなら、ぼくだってそうさせてもらう。
 ぼくにはライオンがついている。
 もう、何もこわくない。

 次の日、学校に行くとクラスメートが遠巻きにぼくをながめている。
 そんなこと気にもせずに机に向かおうとしたら、ライオンのほえ方がかわった。
 するとどうだろう。クラスメートたちがぼくの周囲に集まって来た。
 みんなカンタのやつにうらみがあったようだ。
 ライオンの声が静かなので、「すっきりした」とか「かっこよかった」などというほめことばがはっきりと聞こえた。
 なんだかむずがゆいけれど、心地よかった。
 今日の下校はひとりではない。
 クラスメートたちを引き連れてコンビニに寄っていた。
 その中にはカンタも混じっている。
 ぼくはカンタに命じてお菓子を買わせた。
 そしてコンビニを出ようとしたら、店員のお兄さんに呼び止められた。
 ぼくのズボンの後ろポケットから、支払いのすまされていないお菓子がのぞいていたのだ。
 カンタを見るとにやりと笑っている。
 どうやらはめられたようだ。
 お兄さんが学校に連絡すると言うので、カンタもふくめたクラスメートたちを帰らせた。
 コンビニのひかえ室らしきところに通され、椅子に座らされる。
 反省するのであれば、今回は連絡しない。
 ご両親にもだまっておこう。
 この人は物わかりのいい人みたいだ。
 おとなしく反省しようとしたとき、ライオンの声がまた変わった。
 低い威圧するようなうなり声。
 その変化にとまどったものの、ライオンの声に頭が満たされ何も考えられなくなる。
 視界が赤くそまった。
 ぼくははじかれるようにお兄さんに飛びつく。
 お兄さんといっしょに床にたおれ込み、ぼくの小さなこぶしが何度もふり下ろされる。
 だめだ……この人は……悪い人じゃ……。
 ところがぼくを見あげるお兄さんの表情はあわれんでいるようだった。
 君は何を泣いているんだい?
 お兄さんの顔にしずくが落ちる。
 お兄さんはぼくの両手をつかむと、おなかから起き上がった。
 おれはアマだけどボクサーでね。そんなか弱いパンチじゃなんともないんだよ。
 「それよりも」と、まだあばれるぼくの体を強くつかみ――、ギュッとだきしめる。
 あっ……。
 ライオンの声がとおのくのを感じた。
 おれもガキのころは色々あったもんだ。だから強くなりたくてボクシングをはじめた。
 君も何か大変なことをかかえているのだろう。
 う……。
 うわ……。
 うわーん……!
 ぼくは泣きに泣いた。
 遠くでほえ立てるライオンの声もかき消してわんわんと。
 それからコロッケをおごってもらってコンビニを出た。
 ライオンの声はもう聞こえない。
 その代わりに、お兄さんのやさしい声がひびきわたっていた。
 また人をなぐりたくなったらいつでもおれんとこに来な。
 家に帰ったらお母さんにあやまろう。
 先生にもカンタにも。
 もうぼくにライオンは必要ない。

■さいごの夜

 ちょっと前、ご近所さんが「黒猫なんて不吉よねぇ」とかげ口を叩いていたのを耳にしたことがある。
 それはウチのベルベッドのことだ。
 でもわたしは、なめらかな夜のようなので、黒がいちばんきれいな色だと思っている。
 だけどベルベッドは黒まみれというわけでもない。
 もちろん体毛は黒なんだけど、鼻がピンク色でかわいらしいアクセントになっていた。
 そのベルベッドももう十八才。
 人間にたとえるならかなりの年寄りである。
 なのでとうぜんわたしが生まれる前からベルベッドはウチにいた。
 わたしの人生はベルベッドとともにあったとも言えるだろう。
 それでも近い将来、かならずお別れのときが来る。
 だから何気なくすごしていても、どこか、気持ちがピンッと張り詰めていた。
 今はベルベッドにできうるかぎり長く寄りそっていたい。
 とは言え、猫は気まぐれだから、わたしがひっつきに行っても逃げられることが多々あるのだけれど。
 わたしが寿命に対して神経質になっているのにはわけがあった。
 ウチの庭先には桜の古木が植わっている。
 老いていても毎年春になるとはなやかに咲きほこっていたんだけど……、去年台風によってダメージを受けたこともあり、ついに枯れてしまったのだ。
 わたしが生まれる前から存在するものを失ったときのショック。
 当たり前の日常としてあったものが当たり前でなくなるのはすごく悲しくて怖かった。
 ベルベッドもその内そうなるのかと考えただけでそわそわとし、目頭が熱くなるほどだ。
 わたしには、一日一日を大切に過ごすことしかできない。
 いつかやって来るその日まで。

 そんなある日、ベルベッドが姿を消した。
 わたしは不吉な考えを閉め出して、家や庭、近所を探しまくる。
 それでもベルベッドは見つからなかった。
 夜になってもベルベッドは姿を現さない。
 親たちは「きっと……」とあきらめムードだ。
 いやだ。
 ベルベッドとお別れなんかしたくない!
 わたしはえさを入れた器をもって、暗い庭に出ると、ベルベッドの名前を何度も何度も呼んだ。
 しかし夜は何も応えてくれない。
 そのうち月明かりもかげりはじめ、わたしはなすすべもなく暗闇に立ちつくすことしかできなかった。
 ベルベッド。
 お願い出て来てちょうだい。
 せめてお別れぐらい言わせてよぉ……。
 ふいに風がふいた。
 すると涙でにじんでいた目の前を花びらが横切る。
 「まさか」と振り向けば、桜の木が満開の花を咲かせていた。
 すでに枯れていたはずなのに。
 さっきまで枝しか広げていなかったのに。
 にゃーん。
 するとどこからともなく猫の鳴き声が聞こえた。
 ……ベルベッド?
 にゃーん。
 どこにいるの!
 周囲を見回せど姿は見当たらない。
 はらはら
 はらはらはら
 桜が、桜の花びらが散りはじめる。
 まるでさいごの力を使い果たしたかのように。
 わたしはその様子をあぜんと見守ることしかできなかった。
 とうとう桜の木は、むざんな姿に戻ってしまう……。
 いえ、ピンク色の花びらが一枚だけまだ残っていた。
 にゃーん
 えっ? まさか……。
 目をこらしてみると、闇夜にりんかくが浮かび上がる。
 ちがう、花びらじゃない! あれはベルベッドのピンク色の鼻だ!
 ベルベッドがピンクの鼻をこちらに向けて、枝の上にたたずんでいた。
 わたしは思わずかけ寄りかけて……、止めた。
 ベルベッドはお別れを言いに来たのだ。
 もう、とどめることはきっとできない。
 にゃーん
 ベルベッドがひときわ高く鳴き声を上げると……、ふいっと闇に飛び込み消えてしまった。
 いつしか涙がこぼれていた。
 でもそれをぬぐうことなくたたずみ、ベルベッドはさびしくない、きっと桜の精とともに天国に行けるのだと自分に言い聞かせた。
 わたしの人生からベルベッドは消えた。
 もう今までの日常とは異なるのだ。
 それでも――思い出はけっして消えることはない。
 わたしは涙と鼻水をごしごしとそででふき取ると、静かにありがとうとつぶやき、闇夜に笑顔を咲かせた。

■夜明けの音楽会

 世界ではどうか知らないけれど、わたしには夜明けが来なくなった。
 朝方、カーテンを開けても朝日がさしこむことはない。
 ベランダから見おろす街はまっくらで、むしろ夜よりも深く沈んでいた。
 ラジオ体操の、新しい朝が来たなんてうそっぱちだ。
 わたしの世界は古く汚れた朝が横たわっているだけ……。
 それでも一日ははじまるから、身じたくをして学校に行くしかなかった。
 指揮をやってみないか?
 今度もよおされる音楽コンクール。
 先生はわたしを指揮者として抜てきした。
 「なぜ?」と思ったけれど、転校して来たばかりでまだクラスになじめないでいるわたしをどうにかしたいと思ったのかもしれない。
 もちろん、以前ピアノを習っていたから、音楽的センスがあるだろうという見込みもふくまれているかもしれないが。
 でもそれならピアノをひかせてくれてもいいのに、そのピアノはわたしよりも下手な栗原さんが受け持っていた。
 指揮者をことわる度胸もなく、言われるがままにみんなをリードする日々がはじまった。
 けれどクラスになじめていないわたしがまとめるのにはやはり無理がある。
 進行の間違いを指摘するとうっとうしがられるし、みんながあきてざわついているのを静めることさえままならない。
 本来、こういう指揮は先生がするものだと思う。
 なじめないわたしが取りしきるなんてできるはずがない。
 もう、コンクールまであと二週間。
 その日は腹痛を起こし、早退した。

 また朝がやって来る。
 けれど夜明けはまだ来ない。
 起きるとおなかがまた痛み出した。
 学校に行きたくないな。
 わたしが指揮をやらなくても、きっと先生がしてくれるだろうし。
 このままおふとんで眠っていたい。
 コンコン
 ふいにベランダの窓がたたかれた。
 ここはマンションの十階なのに。
 鳥のイタズラかと思いカーテンを開けると、何もない。
 ため息をついてまたカーテンを閉めようとしたとき、どこからともなく演奏が流れて来た。
 だけどそれはまとまりのないもので、各楽器が手前勝手に演奏しているひどいものだった。
 こんな朝早くからこんなものを誰が流しているのか。
 近所めいわくと思いつつ耳をかたむけていると、手が自然に動きはじめた。
 それは今まで習って来た指揮の振りつけ。
 指揮棒の代わりに人差し指を立て、バラバラな音をからめ取ってゆく。
 するとどうだろう。
 まとまりのなかった演奏に変化が現れはじめた。
 少しずつ少しずつ、音がかみ合って来たのだ。
 あと少しと思ったら、演奏は聞こえなくなった。
 取り残され不満げなわたしのおなかからは、もう痛みは消えていた。

 それからというもの、毎朝毎朝演奏が流れ、指揮をとるのが日課になっていた。
 調子っぱずれだった音もまとまりを見せ、なんだか耳に心地良い。
 そうするとふしぎなことに学校でも指揮がうまくいくようになり、コンクールまで残り一週間を切ったところでようやく形になりそうなとこまで来た。
 あんなにもうっとうしかった朝が待ち遠しくなる。
 おなかが痛くなることもなくなり、このままコンクールも……と思っていたら事件が起きた。
 先生のいない練習中に男子ふたりがけんかをし出し、まとめ役の義務感にかられて割り込んだ拍子に突き飛ばされて尻もちをつき、手の置き方が悪かったのか、右手を痛めててしまったのだ。
 全治二週間。
 コンクールで指揮をとることができなくなった……。
 せっかくうまくいっていたのに。
 やはりわたしなんかに夜明けは来ないんだ。
 その夜、ふとんを頭からかぶり、まくらを涙でぬらした。
 明け方、いつものように演奏が聞こえて来る。
 やめて!
 わたしはもう指揮はできないの。
 けれど演奏はやむことなく聞こえ続けた。
 まだところどころで合わないパートがある。
 それに耳をかたむけていると、体がウズウズとして来た。
 ええい!
 ふとんをはねのけカーテンと窓を開ける。
 そして包帯の巻かれていない左手を宙にかまえた。
 片手で指揮をとる。
 すると演奏もなめらかになって来た。
 わたしは目をつむり、無心で左手を降り続ける。
 やがて演奏が終盤にさしかかり、まもなく終えようとしたときだった。
 ふいにまぶたに光が射し込んで来た。
 目を開くと、正面にある山から大きな太陽が昇って来ているところだった。
 太陽はかがやく腕を伸ばし、わたしの頭を、ほほを、痛めた腕をやさしくなでる。
 ああ……。
 ああ、やっとわたしの夜が明けた……。
 ほほを伝う熱いしずく。
 そうだ、まだあきらめるのは早いよね。
 片手でも指揮をとるのは不可能ではない。
 みんなが、クラスのみんなが協力してくれたなら……!
 腕をいちだんと大きく手を振り――すん……と指先を止めた。
 深呼吸すると、さわやかな空気が肺を満たす。
 わたしにも新しい朝がやって来た。

■しんきろう

 ガタンゴトンと電車が走る。
 向かう先は海水浴場。
 でも泳ぎに行くわけではない。
 わたしの目的は潮干狩りだ。
 去年まで、潮干狩りはわが家の恒例行事だったけれど、今年はわたしひとりだけ。
 トンネルに入ったとき、窓に映った自分の顔が思いがけず心細げなのにはおどろいた。
 そう、たしかにさみしくはある。
 他の楽しそうな家族を見ているとよけいにかなしくなって来る。
 けど、そのさみしさをまぎらわせるために潮干狩りに行くのだからもう少しのがまんだ。
 そうこうしていると、まどの外の景色が青くなって来た。
 晴れ渡った空の青。
 そして光りかがやく海の青。
 もうすぐだと思うと、さびしさよりも楽しみの方が強くなる。
 やがて電車は目的の駅にすべりこんだ。
 家族連れにまぎれて電車をおりると、十分もかからず砂浜にたどりつく。
 もうすでに潮干狩りにいそしんでいる家族が多かった。
 子どもたちにいいとこを見せようとはりきる父親。
 日やけ対策がばっちりな母親。
 ときおり出て来るカニによろこびの声をあげる息子。
 せっせっとアサリをほりつづけるその姉。
 去年までの自分とかさなる光景に目頭が熱くなって来た
 いけない。
 わたしは泣きに来たわけじゃない。
 ほほをたたき「よしっ!」と気合いを入れると、リュックから取り出したくま手をもって潮干狩りにいよいよいどむ。
 水ぎわまで行き、しゃがみ込んでぬれた砂をかいてゆく。
 すると大きなアサリが姿を現わした。
 わたしがそれを手に取ると、アサリの口がぱかっと開き、白いもやのようなものが立ち込める。
 そのもやの中には自分もふくめたわたしの家族がそろっていた。
 そこにいるわたしは、むっつにも満たないぐらいおさなく、弟もまだ歩きはじめたばかりの頃だ。
 わたしは大きいのが採れたよと見せびらかしはしゃいでいた。
 お父さんもお母さんもすごいねと笑顔でほめてくれる。
 弟はふしぎそうにアサリを見つめている。
 と、そこでもやがはれた。
 てのひらの上のアサリはカラを閉じてしまっていた。
 アサリを小さなあみに入れると、ふたたび砂浜をほり起こす。
 しばらくすると、またひときわ大きなアサリが出て来た。
 アサリはわたしのてのひらの上でぱかっと口を開き、もやをはき出す。
 次に立ち現れた光景は、弟がカニをもっていやがるわたしを追いかけ回しているものだった。
 わたしはお父さんやお母さんの背中に逃げ込みながら、でもこわがっているはずなのに顔は笑っている。
 ふだんならしつこい弟をおこってもおかしくないけど、このときはスリルすら楽しんでいた。
 もやがはれ、アサリが口を閉じる。
 もっと、もっと見てみたい。
 わたしは次々とアサリをほり起こしては、もやに映し出される思い出にひたった。
 気がつくと他の家族連れの姿が見えなくなっていた。
 もうみんな帰ってしまっていたのだ。
 ぽつんと取り残され、波の音だけが聞こえていると、胸の奥からこみ上げて来るものがある。
 わたしは手にもっていたあみを落とし――、大声でうわんうわんとさけんだ。
 なみだは出て来ない。
 さけび声だけが口を突いて出て来る。
 するとどうだろう。
 わたしの口から白いもやがあふれ出した。
 もやは砂浜をおおいつくしてゆく。
 そこはまるで昼間のにぎわい。
 もちろんわたしの家族もそこにいて、手まねきをしている。
 そうよ、潮干狩りはまだまだ続く。
 この時間はずっとずっと終わることがない。
 わたしはまねき寄せられるままに、一歩ふみ出し――。
 ……! ……!
 ふいに自分の名前を呼ばれてわれに返った。
 聞きおぼえのある声にふり向くと、そこには少しふけたお父さんとお母さんがそろっていた。
 ふたりはかけ寄ると同時にわたしを抱きしめる。
 そこになってようやくなみだがあふれ出して来た。
 なみだは潮の味がする。
 まぼろしでないぬくもりに包まれながら、今度こそこの時間が終わらないで欲しいとねがった。

■エメラルドの森

 お母さんが残してくれた宝石エメラルド。
 それがわたしの宝物だ。
 指でつまんでながめていると、まるで深緑の森にまよい込んだかのようなさっかくにおちいる。
 ひょっとしたらこの深い緑の森のどこかにお母さんがいるのかもしれない。
 それを期待して探すけれど、森は折り重なり入り組んで、その内面をさらそうとはしなかった。
 エメラルドはわたしのお守りでもあるから、外出するときも、もちろん学校に行くときも持ち歩いている。
 しかしそれがいけなかった。
 ある日学校から帰って来たら、ポケットに入れていたはずのエメラルドがない。
 ランドセルやお道具袋もひっくり返したけれど、どこにも見あたらなかった。
 わたしはぼうぜんとする。
 お母さんからもらった大切な宝物。
 それをなくすなんて、わたしはどうしたらいいの?
 その夜はただただ泣き明かすことしかできず、気がつけば奇妙な鳴き声が聞こえて来た。
 カーテンをすかして緑色の光が射し込んでいる。
 どうやら朝のようだけど、この鳴き声はスズメではない。
 わたしは立ち上がり、カーテンを開けてみる。
 するとどうだろう。
 マンションの十階の窓から見える景色が緑色にかがやいているではないか。
 そう、あちらこちらからエメラルドの木が生え、見なれた街は森にうずもれていたのだ。
 エメラルドの木々に反射した朝日によって、空も緑色になっている。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 もしかしたらわたしが落とした宝石がタネとなり、一晩で森へと成長したのかもしれない。
 そう思うといてもたってもいられなくなる。
 だって空想でしかなかったエメラルドの森が目の前に広がっているのだから。
 ひょっとしたら本当にお母さんがいるかもしれない。
 わたしはパジャマのままマンションを飛び出すと、お母さんを探してかけ回った。
 ときおり緑色にかがやく鳥を見かける以外に人影はない。
 そればかりかいっこうにお母さんも姿を見せなかった。
 必死になって探し回って、とうとう息が切れへたり込む。
 やっぱりお母さんはもうこの世のどこにもいないのだろうか。
 そう思うとかなしくなってなみだがあふれて来る。
 お母さんに会いたい……会いたいよぉ……。
 お母さん!
 思わず大声をあげてお母さんを呼ぶ。
 するとキシリキシリと音がした。
 その音はじょじょに大きくなってゆき、なんなのと周囲を見わたせば、エメラルドの木に細かなヒビが走っていた。
 そして――、カシャーン!
 街をおおっていたエメラルドの森がいっせいに砕け散ってしまった。
 細かな破片が朝日にキラキラとかがやいて舞っている。
 そしてその向こうに、今朝になってはじめて人影を見た。
 あ、ああ……。
 見開いた目に映ったのは、まぎれもなくお母さんだった。
 お母さんはなごやかにほほえんでいる。
 わたしがかけ出すと、白い手をふり、何ごとかささやく。
 けれどたどりついたころにはもう消えていた。
 周囲を見わたしても影も形もない。
 ふと、お母さんがたたずんでいた場所をもう一度見やると、地面にエメラルドの宝石が落ちていた。
 エメラルドの森が実をむすんだのか。
 ひろい上げると、奇妙な鳥の鳴き声と、お母さんの「いつもあなたとともに」という声が聞こえた。

■わたしがえ

 わたしはほぼ毎日のように衣替えをしていた。
 自宅の一角にあるウォークインクローゼット。
 そこに入ると防虫剤のにおいが立ち込める。
 奥へ進むと見えて来るのは「わたしたち」が左右二列に立ち並ぶ姿。
 けれど本物のわたしじゃない。
 わたしが新たに着替え直す「わたし」なのだ。
 ハンガーにぶら下がっている「わたしたち」はクリーニングされたようにいつもパリッとしていた。
 その中からお気にのものを選び取る。
 お古のままではすぐにほころびが目立つから。
 キズやアザはかくし通せるものではないから。
 だから衣替えする必要性があった。
 今日も一着選び出し、鏡の前で体に重ね合わせる。
 鏡の中の「わたし」はにこやかに笑っていた。
 その表情からはつらさは感じられない。
 すなおで良い子の「わたし」がそこにいた。
 よし、これにしよう。
 さっそくお古のわたしを脱ぎ捨て、新しい「わたし」に着替える。
 鏡に映し出されたわたしには一点のくもりもない。
 これでまたパパとママにふさわしいわたしができあがったのだ。
 ママの呼ぶ声が聞こえたので返事をしてダイニングへと向かった。
 おはよう、新しいわたし。

 どうしよう……。
 胸元からおなかにかけてトマトソースがべっとりとついたわたしの顔は苦しそうにゆがんでいた。
 ぬれたふきんでポンポン叩いてもまったく落ちない。
 しかたないので着替えに来たのだけど、ウォークインクローゼットからはいつもの防虫剤のにおいがただよって来なかった。
 なにか変だ。
 いやな予感にかられながら、真新しい「わたし」を手に取り――悲鳴をあげた。
 手に取った「わたし」には無数のちいさな穴があけられていたのだ。
 それは虫食いのあとだった。
 思わず投げ捨て、別のの「わたし」を手に取るが、それも虫食いにやられていた。
 これもこれもこれもこれもこれも。
 つり下げられた「わたしたち」すべてが虫に食われていた。
 わたしはその場にへたり込む。
 もうダメだ。
 わたしは良い子に戻れない。すなおになれない。痛みがなくならない。
 ふつふつとわいて来る怒りのような感情。
 胸元のトマトソースがマグマのようにたぎり出す。
 ふらっと立ち上がり、ふらっとウォークインクローゼットを出て、ふらっと戻って来たわたしの手にはライターがにぎられていた。
 使えない「わたし」なんかもういらない。
 虫ごと燃やしてしまえば、きっとまた新しい「わたしたち」が現れるはず。
 火をともしたライターを持つ手がふるえる。
 さぁさぁさぁさぁさぁ。
 ふいに頭をよぎるやさしいパパとママの笑顔。
 ライターの火は消え、わたしはその場にくずれ落ちた。
 しばらくそうしていて、ふと思い立つ。
 いきおいよく立ち上がるとクローゼットにあるさいほう箱からハサミと針と糸を取り出した。
 そして散らばる「わたし」をかき集め、ジョキジョキとハサミを入れる。
 数時間後、鏡にはツギハギだらけのいびつな「わたし」が重ねられていた。
 笑顔も引きつりかわいくない。
 だけど今までの「わたし」の中で一番ふさわしいような気がした。
 お古を脱ぎ捨てて着替える。
 おそらくもう衣替えすることはないだろう。
 ほころんでも汚れてもずっとこのまま。
 ずっとずっと、これがわたしなのだ。
 よしっとほっぺたを叩いてクローゼットを出ようとしたとき、チラッと鏡に映ったわたしは今までになく生き生きとかがやいていた。

■おもひで雨

 空が晴れない。
 心も晴れない。
 そんな気持ちでも日常は立ちどまりやしない。
 どんなにゆううつであろうと学校に行かなくてはならないのだ。
 ふと玄関でお父さんの黒い傘が目にとまった。
 夕方から雨がふって来たとき、よく駅まで迎えに行っていたことを思い出す。
 傘立ての上で手がさまよい――お父さんの傘を手に取った。
 するとどうだろう。
 傘は待ってましたと言わんばかりにぶるりと身をふるわせた。
 そうか、しばらく使われていなかったもんね。
 きっと外が恋しかったに違いない。
 わたしはお父さんの傘とともに家を出る。
 そしてボタンを押して傘をいきおいよく開いた。
 傘が雨を力強くはじく。
 心なしか軽く感じるのは傘が浮かれているせいなのか。
 道路に出て足が向いたのは学校……じゃなく駅の方角だった。
 ほら、犬は散歩コースが決まっているじゃない。
 傘だって通いなれた道の方がうれしいんだと思うんだ。
 現に傘がかなでる雨音は、いんうつな雨を陽気なものに変えている。
 このままわたしがおどり出せばミュージカル映画のようになるかもしれない。
 そんなこと想像したら思わず笑いがこみ上げて来た。
 他人が見ればあぶないやつだと思われそう。
 でも、でも、ああこんな気分になったのはひさしぶりだ。
 お父さんが亡くなって以来、家の中は梅雨空のようにじめじめとしていた。
 お母さんもおじいちゃんもおばあちゃんもずっと表情を沈ませている。
 わたしはなんとかその空気を変えようと話しかけても、返って来るのあいそ笑いのみ。
 わたしだってつらいのをがまんしているのに……。
 わたしだって悲しみで胸がいっぱいなのに!
 ……ふぅ、マイナスのことを考えるのはよそう。
 あっ、アジサイが咲いている。
 ひと目見たとき、りんかくだけで真ん中の花が咲いていないように思える。
 けれどこれはそうゆう種類で、ガクアジサイと言うらしい。
 そうお父さんに教えてもらっていた。
 ほかにもアジサイの下に死体を埋めたら花の色が変わるんだぞと恐ろしいことも聞いていた。
 もし、お父さんが埋められていたらどんな色になるんだろう。
 こういうのをフキンシンというのかもしれないけれど、きっとタイガースが好きだったから、黄色と黒の縞模様かもね。
 ふふ、また顔がにやけちゃう。
 家に阪神グッズをあふれさせたお父さんらしいと言えばお父さんらしい彩りだから。
 あれ、これ、とお父さんとの思い出がつまった景色をめぐっているとなんだか元気がわいて来た。
 たしかにお父さんはいなくなった。
 だけどお父さんとの思い出はこの街に息づいているんだ。
 そうこうしているうちに駅が見えて来た。
 ちょうど朝の混雑時間。
 みんな駅の改札に飲み込まれてて行くけれど……。
 わたしは足を止め、少しずつ目を見開いててゆく。
 駅に見なれた人影がたたずんでいたのだ。
 まさか……お父――さん?
 お父さんはそうだよとでも言うようにやさしい眼差しをわたしに向けていた。
 あ、ああ……。
 わたしはゆっくりゆっくり噛みしめながらお父さんに近づいてゆく。
 そしてついにお父さんの前にやって来た。
 なみだをぬぐいながら傘をたたむと、傘はぬれた犬のように身ぶるいをした。
 お父さんが手をさし出す。
 わたしは傘を……そっと手わたした。
 ありが――ゴーン!
 ふいに雷がとどろき、思わず身をすくめ、一瞬目を閉じる。
 次に目を開いたときにはもう、お父さんの姿は見当たらなかった。
 わたしはしばらくほうけたようにつっ立っていた。
 ふと空を見上げれば、雲間から日が射し込みはじめている。
 雨が止んだ。
 わたしの心にもあたたかな日差しが届いている。
 もう一度駅を見て――バイバイ。
 雨に洗われた街に戻りながら、お母さんたちの心もいつか晴れることを願ってやまない。

■きずあと

 事故にあったときのことはおぼえていない。
自転車に乗っていたのは頭に残っているけれど、そのあとはまっしろだ。
 気がつけば夢の続きのようなまっしろな病院のベッドで寝ていて、お母さんとお父さんたちがぼくの目が覚めたことをすごくよろこんでくれた。
 ぼくは信号無視して曲がって来た車にはねられたらしい。
 しかもその拍子に近くのショーウインドウにまで突っ込んで、大きなケガをした。
 目が覚めたときはまだ麻酔が効いていたけれど、時間が経つにつれガラスにさかれた傷がうずき、ズキズキと痛む。
 正直、はじめて傷あとを見たときはショックだった。
 胸から脇腹、そして体をひねらないと見られない後ろ腰にかけ、糸でぬったあとが、いやむしろ、列車の走る線路のようなあとが走っていたのだ。
 一生残るかもしれない。
 そう先生に言われたけれど、心配は傷あとよりも痛みが続くことだ。
 このままズキズキと痛み続けるなんてごうもんに近い。
 ぼくは悪いことを何ひとつしていないのに……いや、宿題をさぼったりお手伝いをしなかったことはあったけど、ここまでひどい仕打ちを受けるほどではないはずだ。
 退院した今も、ぼくは布団の中で傷にわずらわされていた。
 ここ最近ぐっすり眠れず、毎晩どうにもならないうずきに何度も寝返りを打つ。
 病院で痛み止めの薬をもらって飲んでいるけれど、効いているのか効いていないのか分からなかった。
 痛みをおさえつけるように自分の体を抱きしめ、丸くなる。
 こうすれば少しは痛みがやわらぐような気がしたのだ。
 じっとしていると、どくどくと自分の心臓が脈打つ音だけが耳に響く。
 どくどく どくどく ポー……
 ん? ポーだって?
 なんの音だと思い考えたら、機関車の汽笛というやつのような気がした。
 生で聞いたことはないけれど、よくテレビから流れて来る音だ。
 でも自宅の周辺で機関車なんか走っていたっけ?
 機関車どころか電車だってこの近辺では見かけないのに。
 さらに耳をすませてみた。
 しゅぽしゅぽ ガタンゴトン しゅぽぽ ガタンゴトン
 機関車は軽快に走っていて、なんだかぼくの胸までおどって来るようだ。
 しだいに傷の痛みも忘れ、じぃーと聞き入りはじめた……。

 ぼくは機関車に乗っていた。
 薄汚れた窓の外では、灰色の煙が流れてゆく。
 その合間から見えるのは薄桃色の草原だった。
 細い糸のような雑草が一面に広がっている。
 とくに目立ったものはない。
 それでもはじめての機関車に、目を輝かせて食い入るように景色をながめた。
 しばらくするとスピードがゆるやかになりはじめ、やがて窓の外に現れたのは小さな小さな駅だった。
 窓を上げ、顔を出してみる。
 プラットホームでは赤い帽子をかぶった小人たちが数人、肩にツルハシをかついで待っていた。
 小人と言えば聞こえはいいが、いやらしそうな顔立ちからはかわいげは感じられない。
 何やら雑談しながら、扉が開くとわらわらと乗り込んで来た。
 ぼくはなんとなくとっさに座席のかげにかくれる。
 小人たちは少しはなれた席を陣取り、かん高い声で笑っていた。
「次の現場ではもっとハデに行こうぜ! まだまだ生ぬるいような気がする」
「ああ、もっと大きく振りかぶってツルハシを突き立ててやるんだ!」
 うひひひひと下品な笑い声になぜだか鳥肌が立った。
 どうも良い小人ではないようだ。
 このまま放置しておくのはいけない気がする。
 さて、どうしたものか……。
 機関車が走りはじめると、小人たちは疲れていたのか、機関車に揺られてうとうとと居眠りをしはじめた。
 小人たちのツルハシは座席の横に無防備に立てかけられていて――、それを見たぼくは名案を思いつく。
 あのツルハシをうばってしまえば、もう悪いことができないのではないか。
 そうと決まれば、ぼくは足音をしのばせてこっそりと小人たちの座席に近づいた。
 時折つぶやかれる寝言や寝返りに肝を冷やしながらも、小さなツルハシをひとつまたひとつと取り上げ、またそぉーと小人たちからはなれる。
 自分の席に戻ると、ツルハシをどうしようかと思い、流れる窓の外を見てピンと来た。
 そうだ、こいつを窓から捨ててやろう、と。
 さっそく窓を上げ、ぼくは両手にかかえたツルハシを放り投げる。
 ツルハシは風に飛ばされて去りゆく草原に落ち――たところでズキッと肌に痛みが走った。
 ハッと気がつくと、そこは機関車の座席ではなく、布団の中だった。
 なんだ夢かと思いながらうずく肌をボリボリとかく。
 すると何か爪の先に引っかかるものがあった。
 なんだろうと指先を見ると、爪の隙間に棒のようなものが数本はさまっていた。
 まさか、これは夢で見たツルハシ……?
 そうか、さっきの痛みは放り出されたこれらがぼくの肌に突き刺さったものだったんだ。
 ということはあの機関車が走っていたのは、ぼくの――傷あと?
 それっきり、ぼくの体から痛みはなくなった。
 いや、ときどきチクチクとはするけれど、きっとそれはツルハシを失った小人たちの悪あがきだと思えばほほえましい。
 またぼくの肌を走る機関車に乗れる日は来るだろうか。
 それからは毎晩眠りに落ちるまで、ぼくは自分の肌の上を走る機関車のことを思い描くのだった。

■かくれんぼきりん

 家にいるのもおっくうなので、おじいちゃんのさそいで散歩に出かけたとき、あるお寺の前で立ち止まった。
 お寺は長い石段を上った先にあって、こんもりとした森に囲まれている。
 おじいちゃんはしばらくお寺の方を見上げ――ふいに口を開いた。
「この森には泉があってな……」
 感慨深そうに目を細める。
「麒麟が水を飲みに来るそうだ」
 キリン?
 キリンってあの、サバンナにいる?
 そんなことあるわけないと思ったけれど、おじいちゃんの気を悪くするのもなんだから相づちだけ打っておいた。
 けどそれからというもの、キリンが水を飲みに来るという言葉がぼくの頭にこびりついてはなれなくなったんだ。
 草食動物でつぶらなひとみをしているけれど、強い攻撃性も秘めているキリン。
 そしてその体の模様は、木立にかくれるための迷彩にもなるという……。
 ぼくには兄弟が五人いる。
 しかもぼくの立ち位置は四男という微妙なもので、とくにお母さんたちに大事にあつかわれることもなく、かといって兄弟間でも発言力があるわけでもなく。
 しかも自分ひとりになれる場所もないから、ストレスがたまる一方だ。
 だから、何かしらの環境に溶け込む動物や虫にあこがれていた。
 擬似的にひとりになるそれらの生物のように、ぼくもかりそめでもいいので孤独を得て、心の平穏を得たかった。
 そうつねづね考えていたときに、おじいちゃんからキリンの話を聞いた。
 擬態する生物なんてまわりにはいないものと思っていたのに、まさか通学路のそばにいたなんて。
 きっとそのキリンも森の木立に溶け込んでいるから、誰にも見つからずさわぎにもならないのだろう。
 日本の片田舎で孤独に生きるキリン。
 ぼくはその光景を何度も何度もも頭に思い描き、自身の満たされない欲求のはけ口にしていたけど、やはり自分の目で確かめてみたかった。
 だから、ぼくは深夜に家を抜け出したんだ。
 夜に泉の水を飲みに来ているか分からないけれど、昼間よりも人目をさけられると思うからチャンスがないわけじゃない。
 懐中電灯を手に持ったぼくは、長い急な石段を上り、お寺の境内を抜け、森に忍び込む。
 月明かりさえ届かない森は暗く正直こわくてちょっと後悔しはじめていたけれど、ここまで来て引き下がるのもなんだからがまんした。
 キリンをおどろかせないようできるだけ物音を立てないように進んでいると、ふいに水のにおいが鼻をくすぐる。
 きっと泉が近いのだ。
 テンションが少し上がったぼくは、草木をかき分け、慎重に、でも急いでにおいの方へと向かう。
 そして現れたのが――子ども用のビニールプールほどの小さな泉だった。
 看板も立っているから間違いはないはずだけど、思いがけない小ささにすっかり拍子抜けしてしまった。
 こんなんじゃキリンもいそうにない。
 やっぱりたんなる迷信だったのか……。
 そのとき、ふいに視線を感じた。
 「えっ?」と思い振り返っても何もいない。
 首をかしげるとまた気配が。
 「だ、誰?」と周囲をくまなく電灯で照らしまくる。
 するとざわざわとまわりの木々がゆらめきはじめた。
 まさか、まさかね。
 ぼくの想像力は、もしくは照らしたときには認識できなかったことを脳がとらえていたからかもしれないけど、周囲の木と思っているものがすべてキリンの擬態ではないかということを思い描いていた。
 ぼくは今、キリンの群れの中に立っている、と。
 でも、こわいという感情ははじめだけ、しだいにたたずむ自分自身もキリンといっしょに森に溶け込んでいるようなさっかくをおぼえた。
 なんだかとても落ち着く。
 心の中にたまっていたオリが消えていくようだ。
 静けさというものはこんなにも気持ちいいものだったんだな。
 学校でも、家以外でさわがしいのはごめんだから友達も作っていなかった。
 そこまでしても得られなかった孤独を今、体感している。
 ぼくは森に、夜になっていた。
 結局キリンの姿を確認できたわけじゃないけれど、小一時間ほどそこにいて、家へと、現実へと戻って行った。
 しばらくはさわがしい社会でも生きていけそうだ。
 ふたたびストレスがたまったらあそこへ行こう。
 キリンたちはきっと迎え入れてくれると思う。
 彼らもまた静けさを愛する生き物なのだから。

■濡れ羽姫

 濡れ羽色の黒髪……と言えば聞こえはいいのかもしれない。
 けれど実際は油脂が回ってぬれたように見えているだけだ。
 髪を洗いたい……。
 でもわたしが入院している病院では、週に一度しか入浴の機会がなかった。
 それ以外はぬれたタオルでふくしかなく、かと言って相部屋だから体をぬぐうのもままならない。
 きれいな長い髪とほめそやされて来たわたしがこんなふけつな思いをしなければならないなんて……。
 家は裕福とは言えないから個室もあてがわれることなく、ただただがまんするしかなかった。
 わがままを言うのは簡単だ。
 だけどそんな子どもっぽいことなんてしたくない。
 まだ小学生だけど、気品高く生きていきたいのだ。
 そう、美しい髪を持って生まれた子はお姫さまの資質がある。
 昔、おばあさんにそう教えてもらった。
 だから気高く生きなさいと。
 たとえ髪が洗えなくても心まで汚れたくはなかった。
 それに……病気のことだけでも迷惑をかけているしね。
 次の入浴はまだ二日後。
 昨日、お母さんに髪をふいてもらったけれど、もうすでに油脂にぬれはじめている。
 はぁ、こんなんじゃお姫さまにはほど遠いわね。
 その夜、枕にしみ込んだ油脂のにおいを気にしながら、うとうとと眠りにいざなわれていた。
 するとどこからともかくわたしを呼ぶ声が聞こえる。
 ……姫、……姫。
 姫? だぁれ、本当にお姫さまあつかいしてくれる方は……。
 もぞもぞと上半身を起こすと――、いくつもの光る玉が周囲を飛び交っているではないか。
 な、何よこれ。
 そこで気がついた。
 わたしはいつしかベッドではなく椅子に腰かけていて、黒々とした滝壺らしき中心にいることを。
 いえ、違う……。
 この周囲を渦巻いている黒々としたものは水じゃない!
 わたしの頭から伸びた髪の毛だ!
 濡れ羽色の髪の毛がとぐろを巻いて、水のようにたたえられていた。
 姫、ようやく起きもうしたか。
 いつの間にか一羽のカラスがわたしの頭上を旋回していた。
 そろそろ婚礼のしたくをしなければ間に合いませんぞ。
 こんれい?
 さよう、姫は黄泉の国の王子とご結婚なされるのです。
 それを聞いても、なぜだかおどろきはしなかった。
 むしろ、いよいよお迎えが来たんだと納得する。
 わたしは本当にお姫さまになれるんだ。
 そう思うとひとつぶの涙がほほを伝った。
 おお、なんと王子みずからがまいられたようですぞ!
 ああ、名残があるとすれば、きれいな髪で嫁ぎたかったこと。
 とぐろを巻く髪の毛も十分美しいけれども。
 わたしは嫁ぐ相手を見た。
 黒衣を身にまとったガイコツ。
 くぼんだ目や口からうじ虫がぽろぽろと。
 そこではじめて恐怖をおぼえる。
 い、いや。
 わたしはまだ行きたくない!
 そのとたん、髪の毛はぬれたような鱗と羽毛を持つ無数の蛇となった。
 蛇がシャーシャーとガイコツをいかくする。
 さしもの死神もひるんだのか、しばらくにらみ合ったあと身をひるがえして去って行った。
 髪って本当に女の武器なのね。
 それ以来、油脂にぬれた髪の毛を汚らしく感じなくなり、むしろ誇り高く思えるようになった。

■月の鍋

 ひとりぼっちの晩ご飯。
 窓には金色のお月さまがまんまるとかがやいていた。
 その色合いと形はパパとママとわたしでかこんだナベに似てなくもなかった。
 そう言えば月には海と呼ばれる地形がある。
 海は生命のスープとも聞いたことがある。
 ということは月は満月はまさにナベなのではないか。
 味付けは海によって変わるのだ。
 たとえばわたしの名前と同じ静かの海はつめたい。
 それを食べれば頭に上った血もさましてしまう。
 南の海は甘い香りが立ちこめるトロピカルな味。
 くだものはお肌にいいからママがよろこびそう。
 緑の海は少々青くさいけれど野菜がたくさんとれる。
 メタボなおなかが心配なパパこそ食べないとね。
 晴れの海はお日さまのにおい。
 ママが干したお布団のように心地よくなる。
 神酒の海は大人の味だ。
 パパがスープを飲み過ぎないように注意しないと。
 蛇の海は少しこわい。
 うっかり箸でつまもうものなら、牙をむいて家族のだんらんをだいなしにされる。
 だからパパとママにはさわらせないように目を光らせるのだ
 今はみとめられてないけれど夢の海というものもあったらしい。
 そこにはわたしたち家族の未来が煮立ってる。
 だからわたしは積極的につついて、パパとママにもすすめて、たんとおなかにおさめてやるのだ。
 おなかがみたされたらシメはやっぱりおもちよね。
 ウサギさんがついたおもちを食べればきっと、きっと胸がいっぱいになれる。
 わたしの目からこぼれおちたスープは幸せの味がした。

■う化

 腹の虫が治まらない。
 つい今し方も椅子の足に小指をぶつけたのが腹が立って、椅子を蹴飛ばし、持ち上げて叩きつけ、放り投げた。
 突然のことに母さんはおろおろするばかり。
 それがさらに火に油をそそぎ、テーブルの上のものをすべて払い落とした。
 それから足を踏み鳴らし自室へと戻る。
 ただ、コップ一杯の水を飲みに行っただけなのにこのありさまだ。
 こんなに怒りっぽくなったのはここ一二年。
 とにかくささいなことでも大きな怒りとなってあばれてしまうのだ。
 もちろん怒りが通り過ぎると反省もする。
 しかしまた腹の虫がうごめき出すと自分でもコントロールができなかった。
 母さんは夜中、父さんに電話をかけて相談しているようだ。
 ところが父さんからは良い返答がないらしく、最終的には口論となって乱暴に電話を切っていた。
 ヒステリックな部分からして僕は母さん似なのかもしれない。
 それからも僕のヒステリーは続いて母さんは「ごめんなさいごめんなさい」と泣いてばかりいた。
 僕だってこんなことしたくない!
 だけどふとしたことで体の内側から怒りがこみ上げ、そのまま感情を体現してしまうのだ。
 そんな暮らしに親子ともども疲れがピークに達しようとした時、田舎からおばあちゃんがやって来た。
 母さんはおばあちゃんと話し込んでいる。
 きっと僕のことを相談しているのだろう。
 ついには机に突っ伏してわんわんと声を上げて泣き出した。
 物陰からその様子を見ていた僕の腹の虫がまたうごめき始めた。
 腹の底からこみ上げて来る怒り。
 でも、おばあちゃんの前でいつものようにあばれるのはイヤだった。
 それでも自制が利かない。
 僕は、僕はリビングに飛び出すとその周囲のものを投げ飛ばし、払いのけ、床に叩きつけた。
 ようやく落ち着いたところで母さんのおえつが聞こえて来る。
 ちらりとおばあちゃんの方を見た。
 僕と目が合ったおばあちゃんはにっこりとほほえむ。
 ふふ、母さんの幼い頃と同じだねぇ。
 私はこの程度じゃ驚きもしないよ。慣れっこさ。
 きっとあんたも腹の虫を飼っているのだろう。
 だけど安心なさい。
 腹の虫がう化したら自然と治るから。
 その時のおばあちゃんの言葉が、毎晩寝つく前に頭によみがえるようになった。
 いつ終わろうともしない地獄に終点があったことを知ったからか。
 そしてその日が案外早くやって来たのだ。
 僕が寝ていた時、なんだかお腹が痛くなる。
 ついに目が覚めてお腹を押さえていると、ふいに痛みが消え、その代わりに胃からこみ上げて来るものがあった。
 けれど不思議と苦しくはない。
 やさしくやさしく、僕ののどを通り抜け、口から姿を現わした。
 それは一匹の紅いチョウチョだった。
 チョウは濡れた羽を動かして僕の口から宙へと飛び立つ。
 僕は突き動かされるように立ち上がると窓を開けた。
 するとそのまま夜の空へと吸い込まれていった。
 ルビーのような光沢をしていたチョウの姿は今でもまぶたに焼きついている。
 怒りが生じても、その姿を思い出すと自然に治まるようになった。
 あれがおばあちゃんの言っていた腹の虫がう化したものに違いない。
 僕の怒りは今ごろどの辺りの空に居るのだろうか。
 何ものにもわずらわされることなく飛び続けてほしいものだ。

■輪舞

 世界が冬に至った日。
 わたしは車いすでそっと家を抜け出した。
 すると影が長く伸び、すてきな足長おじさんが姿を現す。
 お嬢さん、お手をどうぞ。
 やさしい声にみちびかれるまま、わたしは小さな手を黒い手に置いた。
 たくましい手がわたしの手を力強くにぎりしめる。
 そしていきおいよく引っ張り上げられ、わたしは何年かぶりに立ち上がった。
 足に体重を感じる。
 それをささえる地面の確かさも。
 もう、車いすはいらないね。
 足長おじさんはそう言うと、わたしの手を引いてゆるやかにおどり始めた。
 最初はおぼつかなかった足取りも、しだいにステップを思い出し、軽やかさを取り戻す。
 いつしか太陽が空でくるくると輪を描いていた。
 地上の影たちも照らされる方向が変わるびに、くるりくるりと回り出す。
 わたしも回る。
 足長おじさんも回る。
 世界がわたしたちを中心として回っていた。
 このままずっとおどっていたい。
 けれど時間はむざんにも二人を引き離す。
 夕暮れとなり、日がかたむき始めたのだ。
 でも足長おじさんは今が一番のっぽになっている。
 おじさん、わたしも連れて行って!
 けれど足長おじさんは首を横に振ると、わたしのほほにやさしくキスをした。
 日が落ち、足長おじさんはもういない。
 車いすにすわったわたしは、夜にいだかれながら、小さく小さくターンをした。

■冬景色

 棒針で毛糸を編み込んでゆく。
 すると、ひとつの目が生まれるごとに、まぶたの裏に景色が立ち現れた。
 それはキラキラかがやく樹氷の並木道。
 凍りついたアスファルトの上を、スケート靴でスィーとすべっているかのように、冴えわたる景色は後ろに流れてゆく。
 編み目が増えれば増えるほどその景色はさまざまな表情を見せてくれた。
 わたしはまぶたを開いたところで目が見えやしない。
 だからこうして棒針でマフラーの目を編んでいる。
 毛糸の編み目は、本当の目よりも良く見せてくれた。
 もう何メートルか分からない長さのマフラーは、旅の道のり。
 わたしがこの冬にあゆんだそくせきに他ならない。
 けれど……それをほどいてしまおうかと真剣に悩んでいた。
 ちょうどいい長さにしてしまおうかと。
 わたしの旅は分岐点に差しかかっていたのだ。
 旅もいい。
 でも冒険にあこがれる年頃でもある。
 それは恋。
 声とやさしさしか知らないあの人に、マフラーを受け取ってもらいたかった。
 ……今どき手編みのマフラーなんて重いだろうか?
 わたしの目と連れそってほしい、だなんて……。
 だけどそれが、盲目のわたしが見る、あざやかな夢なのだ。
 想いをつのらせながら編み込んでゆく目が見せてくれる景色は、蒼い冬から桜色にそまる春へと移り変わり始めていた。

■屋根裏の晩さん会

 ぼくはコツコツとふろしきにためたお菓子を持って天井裏に上がる。
 そしてふろしきを広げるとうす暗い天井裏は華やかな屋根裏へと変わった。
 ふろしき……今はおしゃれなテーブルかけをパパやママがにこやかに囲んでいる。
 パパ!
 ママ!
 話したいことがたくさんあるんだよ!
 家庭科のテストで百点取ったし、三段のとび箱が飛べたし、給食でキライなニンジンを残さず食べれたんだよ!
 そっかー、すごいわね!
 さすがパパの息子だな!
 パパもママも顔をかがやかせてほめてくれる。
 だからぼくは行きたくない学校でもがんばれるんだ。
 友達がいなくてもいい。
 バカにされてもいい。
 パパとママさえよろこんでくれたらぼくは幸せだ。
 そうこうしている内にお菓子を食べ切ってしまった。
 するとパパとママの表情がけわしくなり始める。
 男なのに家庭科だけ良くてどうするんだ!
 まだ三段しか飛べないのぉ。
 今日の夕飯は生のニンジンだけだな。
 ほんとダメな子!
 イヤだ! そんなこと言わないで!
 ぼくはテーブルかけをいきおい良く取りはらった。
 パパとママが消え、明るい屋根裏も暗い天井裏に変わり果てる。
 ぼくは泣いていた。
 でもすぐに涙をぬぐうと、下に降りる。
 またお菓子をためないと。
 そうすることでパパとママを笑顔にできる。
 一階の食卓でひとり冷たい食事をとるよりも、すきま風がふき抜ける天井……屋根裏で楽しく食べる方がずっといい。
 ぼくのふろしきは、あたたかな食卓を生む北風のくれたテーブルかけなのだから。

■波音

 波の音が聞こえるよ。
 ざざーんざざーんって。
 病にふせって二週間。
 菊太郎は熱に浮かされ、何度もそのようなことをつぶやいていた。
 菊太郎の住む家は山あいにあり、海とはかなりの距離をへだてている。
 なので波の音など聞こえるはずもないのだが……。
 祖父の彦一は父が恋しいのかと考えた。
 以前は山の怪異譚を、姿を見せはしないが気配を漂わせるあの山怪の話をよくせがんで来たものだが、今では父親の手土産代わりの話を聞く方がいいらしい。
 人が多く活気があり、うまいものもたんとある。
 そして何より、海という池よりも広く大きく、そして塩辛い水たまりがあるのがとくに気に入っているようだった。
 波がざざーんざざーんと打ち寄せる様を聞くたびに、菊太郎は目を輝かせて喜んだものだ。
 土地が痩せた貧しい村では、農作物は育たない。
 よって菊太郎の父親は山を下り、遠く離れた漁師町まで出稼ぎに出ていた。
 半年に一度帰って来ると、菊太郎を膝に乗せ、いかに海は素晴らしいかを説くのだ。
 菊太郎の母親はすでに他界している。
 その母親と出会ったのも出先の海辺だという。
 父と母の両方を連想させる海は、菊太郎にとってかけがえのないものになっているのだろう。
 ざざーんざざーん
 菊、もう寝んといかんぞ。
 ざざーんざざーん
 き……うん?
 彦一は菊太郎の顔を覗いて気がついた。
 菊太郎はすやすやと、すでに寝息を立てていたのだ。
 ざざーんざざーん
 では、まさか、この音は本物の波音だとでも言うのか。
 彦一は用心深く耳を澄ませる。
 ざざーんざざーん
 いや、これは……どこかで聞いたことがあるぞ。
 ざざーんざざーん
 ……うむ、そうじゃ! まとまった量の小豆をザルの中で転がした時の音ではないか。
 ということは、あ奴が菊太郎のために……?
 菊太郎がかつて好んだ山の妖怪「あずきとぎ」。
 あずきとぎが小豆を転がして波の音の真似事をしているに違いない。
 ざざーんざざーん
 ありがとうよ、あずきとぎ。
 お前も菊のことを好いてくれていたんだな。
 ざざーんざざーん
 波は絶え間なく打ち寄せ――その数日後に菊太郎は息を引き取った。
 海に菊太郎を取られたくないあずきとぎが連れて行ってしまったのか。
 ざざーんざざーん
 今でもどこからともなく波の音がする。
 それと同じくして男の子がはしゃぐ声も聞こえるのだった。

■城

 高台に尖塔をのぞかせる教会を「城」と名付けたのはKだった。
 教会がヨーロッパの城を思わせるからではない。
 フランツ・カフカの小説『城』から取ったものだ。
 なぜならば、教会はカフカの城のように、決してたどり着くことが出来なかったから。
 尖塔を目指して自転車をこいでも、いつの間にか見当違いの方角に出てしまったり、同じ場所をぐるぐる回ってたり、近づくどころか遠のいてしまったりする。
 とにかく高台の道は入り組んでいて、地元の人間でさえはあく出来ているかどうかあやしいものだ。
 だからこそよけいに行きたくなるのが人間の性なのだろう。
 特にKは城の攻略に熱心で、教会にたどり着いたら鐘を鳴らして合図するからというのが口癖だった。
 鐘なんて鳴ったことないよと言うと、教会だからあるはずさと根拠のない確信をいだいている。
 そんなKは、地道に高台の地図を作成していて、それはさながらカフカの城の主人公である測量士を思わせた。
 ある晩、Kが僕の家を訪れた。
 端整な顔につけられたアザを見た僕は、またKがお父さんに殴られたことを知る。
 Kは今夜中に城にたどり着いてみせると豪語した。
 俺は母さんを亡くした時に孤児となった。
 教会はそういう人間をむかえ入れてくれるところだ。
 つまり俺は資格を持っているんだ、と。
 それがKの姿を見た最後の日となった。
 Kが去ってからしばらくして高台の方から鐘の音がした。
 僕の家から高台は望めないのでそれが本当に城から聞こえているものかはさだかではない。
 でも、Kが尖塔の上で鐘を鳴らしている姿がありありと思い浮かんだ。
 その表情はくったくなく、よろこびに満ちあふれていた。
 次の日、Kの家が火事で焼け落ちたことを学校の先生が教えてくれた。
 それはちょうど鐘の音が聞こえていた時間であり、ならばあれは消防車の鐘だったのかと首をひねったが、行方知れずである親子の遺体は一人しか出て来なかったらしく、やはりKは城にたどり着いたのだと自分を納得させた。

■花咲か列車

 享年十七歳。
 俗名は、ポチ。
 ミックスの白い犬は、十五歳の私より長く生きたことになる。
 私が物心ついた頃からすでに居て、人生の先輩であり、お兄さんであり、良き友であった。
 ポチが闘病の末に亡くなったとき、ほっと胸をなで下ろす自分が居た。
 排便も立ち上がるのも困難な辛い姿をもう見なくてもいいから。
 だから冷たくなっても涙がこぼれることはなかった。
 ただ、心にポッカリと穴が空いたのは確かだ。
 簡単な葬儀をあげ、父親と一緒に火葬場へと向かう。
 もう3月の半ばだけど、窓をよぎる冬枯れの桜並木が寒々しい。
 山の中の火葬場にもところどころに桜の木が植えられており、舞い散る桜の花びらと戯れていたポチの姿が思い起こされ、昨日のことのように懐かしんだ。
 焼き場では早々にポチの固くなった体を台車に横たえる。
 そして遺体を焼却炉に入れたとき――ふいに震えが来た。
 もうポチはポチで無くなるのだ。
 骨と灰になってしまうのだ。
 写真ならいくらでもあるが、あの日向の匂いがした柔らかな毛に顔をうずめることはもうできない。
 そう思うと、今まで冷静だったのが嘘のように動揺がこみ上げて来た。
 体が震え、これ以上父親とポチが焼き終わるのを待っていられなかった。
 私は弾けるようにその場をあとにし、敷地内を走りに走った。
 息が切れたところでようやく火葬場を振り返る。
 すると――、突風が吹きつけ思わず腕で顔をおおった。
 次に景色を目にしたとき、私はまんまると見開いた。
 そこは火葬場の敷地ではなく、古びたプラットホームだったからだ。
 しかも停車しているのは実物を初めて目にする蒸気機関車に他ならない。
 ふいに甲高い笛の音が鳴り響いた。
 するとこれに乗らねばという衝動に駆られ、急いで乗り込む。
 機関車は蒸気を吐き出し、ゆっくりゆっくり動き出した。
 勢いに任せて乗ったものの、この行き先は知りようも無い。
 他に乗客も見当たらず、とりあえず窓側の席に腰をおろした。
 窓の外では冬枯れの木々が後ろの方に流れてゆく。
 まだ春は遠いように思われ、なんだかわびしい気持ちになった。
 ふと、どこからか犬の鳴き声が聞こえて来る。
 窓の外では白い影が駆けていた。
 あれは、そんな、ポチ!
 だけど一匹じゃ無い。
 小さな女の子もポチと一緒に走っていた。
 私だ。幼い私がポチと駆けっこをしている。
 やがてその懐かしい光景は後ろへと流れ去ってしまった。
 それからもポチが現れ、少しずつ成長してゆく私も併走している。
 けれどあるときを境に、ポチ一匹だけとなった。
 ポチは時折こちらを見やりながら、機関車とともに走り続けていた。
 窓の外は過去を通り越して、死者の時間に突入したのかもしれない。
 やがてポチは加速し始め、機関車よりも速くなり、ずっと先へ先へと行ってしまった。
 待って!
 私は立て付けの悪い窓をこじ開ける。
 顔を出しポチの背中を追うがもう見当たらなかった。
 ふいに灰色の煙が吹きつけ、顔を背後にそむける。
 そこで私の目は驚きに見開かれた。
 機関車が通り過ぎた景色に満開の桜が咲き誇っていたからだ。
 よくよく見ていれば、機関車の排煙が触れた枯れ木はたちまち桜の花を咲かせていた。
 この機関車はひょっとしたら桜前線なのかもしれない。
 死者の遺灰を燃料に日本列島を上ってゆくのだ。
 そう思い至ったら、急な眠気に襲われる。
 私は座席に崩れ落ち、意識がゆるりと遠のいていった。
 自分の名を呼ばれ目を覚ました。
 私はいつの間にかベンチで眠りこけていたらしい。
 お父さんがもう春だなぁと私の背後を見つめていた。
 振り向くと、桜の木にいくつかの花が咲いている。
 これはきっとポチが咲かせた花だ。
 ポチは遠いところに行ってしまったけれど、いずれ私がそこに至ったとき、また桜並木の間を駆けっこしようと思った。

■骨のきしむ夜

 掛け布団にくるまりながら、みしみしという音に耳を傾けていた。
 その音はぼくの体の中から聞こえている。
 成長期のまっただ中、骨がきしみながら長く太く育っているのだ。
 今まで散々チビだと馬鹿にされて来たけど、牛乳を毎日一パック飲んだ成果が出たのか、順調に背が伸びていた。
 このまま行けば万年最先頭からきっと解放されるはず。
 ひょっとしたら最後尾にまでのし上がれるかもしれない。
 そんなことを夢想しながら内なる音に聞き入っていると……ふいに強く揺り動かされ驚いて上半身を勢い良く起こした。
 するとお尻の下は敷き布団ではなく固い座席シートで、ぼくはいつの間にか列車に揺られていたのだ。
 いや、これはきっと夢に違いない。
 それでも夢を夢と認識するのが珍しくて、周囲を見渡した後、窓の外を眺めてみる。
 しかし景色は真っ暗でどこを走っているか分からなかった。
 他に乗客は居ないのかと別の車両に移ろうとした時、突然アナウンスが流れ、「間もなく駅に到着します」と告げられる。
 その予告通り、ものの数分で列車がスピードを緩めたのが分かった。
 そして開かれる扉。
 これが悪夢と言い切れないから、慎重に扉から顔を出し様子をうかがいつつ外へと踏み出す。
 外は変哲も無い駅のプラットホームだ。
 ホームには他に誰も居ない。
 と、ピリリリと笛の甲高い音が響き渡ったと思ったら、列車の扉が閉まりゆっくりと動き始めた。
 列車はスピードを上げ、ぼくを取り残して行ってしまった。
 ここはいったいなんて駅なんだろう。
 どこを見渡しても駅名は書かれていなかった。
 で、これからどうすればいいんだ?
 だけどそんな不安は無用とでも言うように、新たな列車の到着がアナウンスによって告げられる。
 そのすぐあとに列車の音が聞こえて来て、さっきよりも真新しい、でも奇妙な作りが同じな純白の車両が滑り込んで来た。
 開かれた扉を前にためらったものの、このままホームに居ても進展性がなさそうなので、ええいと威勢良く乗り込んだ……。

 目が覚めるともう朝だった。
 けれどさっきまで見ていた夢のことは鮮明におぼえている。
 いやむしろ夢そのものよりも列車の形状が脳裏に焼き付いていた。
 あれは……そうなるのか? でもそうとしか考えられない。
 夢の中で見た純白の列車。
 それは理科室の骸骨標本で見知った骨が、何本も連結したようなものだった。
 もしかしてあの列車はぼくの成長を比喩したものではないか。
 古い骨から新しい骨へ乗り換える。
 そのたびにぼくはのっぽに成長してゆくのだ。
 それからというもの、度々骨列車を乗り換える夢を見た。
 そして確実に身長が伸びている。
 さらに分かったことがひとつあった。
 ぼくの体の成長速度は、骨列車の車両編成の数によって変動するということ。
 当然車両が多い方が成長がより顕著になるのである。
 とは言えそんな変動も微々たるもの。
 もっと劇的に伸びないものかと思案した。
 
 今夜もプラットホームで列車を待っていた。
 もうすでに七本の列車が行ってしまっている。
 だけどそれでも良かった。
 できるだけ長い車両に乗り込むために、やって来る列車の編成数を見計らっていたのだ。
 やがてついに満足できる車両編成の列車が訪れる。
 が、いつもと違う状況に、これでいいのかととまどったものの、このチャンスを逃したらいけない思い、扉が開くと飛び乗った。
 十三両編成もあればきっと明日の朝はびっくりするくらい背が伸びているに違いない。
 ところが車両が長過ぎたのか、カーブを曲がり切れず列車がブレーキ音を響かせて横転……したところで目が覚めた。
 じっとりと汗をかいている。
 のどが渇いたので水を飲もうと立ち上がると、「よっこらしょ」とじじ臭い声を出してしまった。
 それどころか痛くて腰をまっすぐに伸ばせない。
 なんだか嫌な予感がして、言うこと聞かない重たい体を引きずり洗面台に立つと――あ然とした。
 鏡に映っていたのは、いたのは、ぼくではなく……おじいさんでもなく、お母さん!
 しかも今よりも若い感じがする。
 そうか、いつもと違い逆方向から滑り込んで来た列車は上りのものだったんだ。
 ぼくはまだお母さんのお腹の中。
 お母さんという器に乗り換えてしまった。
 あの列車は骨ではなく体を乗り継ぐ比喩だったのか。
 自分が居るまあるいお腹をなでてみる。
 こみ上げるいとしさは母さんのもの?
 今からカルシウムをたくさんとろう。
 次に生まれるときはうんと背が高くなりますように。

■逢魔ヶ恋

 私があの方を初めてお見かけしたのは、小学校低学年の頃。寒い夜のことでした。
 尿意に我慢が出来なくなり、真夜中の廊下を恐る恐る歩き、トイレに向かっていたのです。
 当時住んでいた家は旧い平屋で、明かりもない廊下にわだかまる闇はどこまでも深いように思われました。
 あの角を曲がればすぐにトイレにたどり着く。ようやくそんなところまで来た時です。
 T字になっている正面の廊下を黒い影が横切りました。
 私は立ち止まり、呆然としてしまいます。
 でもそれは恐怖からではありません。
 横切った影の横顔を、憂いを湛えた端正な横顔を見て、心奪われていたのです。
 おそらくそれが初恋なのでしょう。
 けれど相手は人間でないことは幼心にも理解していました。
 その日から真夜中の廊下は怖いものではなくなり、またあの方に会えるかもしれないという甘やかな時間に変わったのです。
 期待通り、あの方にはすぐ再会出来ました。
 毎日ではありませんが、どうやら丑三つ時……、深夜の二時頃に現れるようです。
 ですがあの方はいつも正面をまっすぐ見つめ、横で佇むちびの私など眼中にないようでした。
 私は父親に頼み、あの方が横切る隣の柱に、線を刻んで貰いました。
 それはちょうどあの方の目線の位置で、そこまで私が成長すればきっとあの方も目に留めてくれるだろうという希望が込められていたのです。
 私は背を伸ばすために、嫌いだった牛乳を飲み始めました。
 おやつもお菓子ではなく、煮干しにし、白ご飯にも小魚のふりかけをかけたものです。
 中学に上がると、背を伸ばすためにバレー部に入部しました。
 その甲斐あってか、私の身長はみしみしと伸び、高校になった頃には柱の傷に頭が届くようになったのです。
 私はあの方を待ち望みました。
 あの方は相変わらず廊下を横切っていましたが、ついに私は足止めすることにしたのです。
 丑三つ時、あの方が現れると、私はあの方が消えてしまう前に正面に飛び出し、背伸びしてあの方の目を覗き込みます。
 とうとうあの方と目が合いました。
 一瞬驚いた表情をしましたが、すぐにあの方の顔は深い悲しみに彩られます。
 胸に鋭い痛みが走りました。
 私はようやく気に留めて貰ったのに、胸を押さえてうずくまることしか出来なかったのです。
 そしてあの方は私を通り越して消えてしまいました。
 こうなることは分かっていたと思います。
 額に二本角があるあの方は鬼。それも青い憂いを湛えた青鬼なのです。
 鬼は人間に災いをもたらす存在ですから、きっと不幸が起きると。
 救急車で運ばれはしたものの、幸いなことに大事には至らず、私もまた恋をあきらめはしません。
 退院してすぐにあの方に会おうとしました。
 私の元気な姿を見せて、あの方が見せた青い悲しみを拭い去りたかったからです。
 ですがあの方を見て私は愕然としました。
 柱の傷を通り越し、あの方の目線は一回り以上高くなっていたのです。
 成長期が過ぎた私には、今以上の身長は望めそうになく……。
 あの方は私は拒絶したのでした。
 けれど人間の女の執念を馬鹿にしてはいけません。
 鬼に恋した私もまた恋の鬼と化していたのです。
 それがこの、頭に生えた角の秘密です。
 身長が伸びる代わりに、私の頭上に角が生え、あの方の目線にまで達したというわけです。
 それからあの方とはどうなったかですって?
 私の角を見たあの方は青ざめ――どこかに行ってしまわれました。
 それ以来私はあの方を追い、こうして家々を旅しているわけです。
 そう、恋の鬼ごっこはまだ続いています。

■橋占姫(はしうらひめ)

 時代はいまだ逢魔が時が息づいていた頃。
 十になったばかりの新八が、祖父と共に用事に出かけた帰り道に、町を横断する河に架かる数機矢橋(すきやばし)を渡っていた。
 すると橋の欄干に独りの美しい女がもたれかかっているではないか。
 西日に染まる橋でありながら、その女だけは雪が降り積もったように白かった。
 新八は一目で女に心奪われていた。
 同年代の娘たちには感じなかったときめきに、手に持った包みを思わず落っことしそうになる。
「どうした新八?」
 急に背後で歩みが途絶えたのを不審がった祖父が声をかけた。
 新八は橋の中程でぼぉと突っ立っている。
「じいちゃ、あの人……」
 なんて綺麗なんだろう。後半は声にならず、相変わらず見とれ続けた。
「あの人?」
 祖父は怪訝に新八の視線をたどるが、その先には欄干があるだけだ。
「まだ夢を見るには早いぞ。さぁ、日が暮れる前に帰ろう」
 それでも動こうとしない新八の襟首を掴むと、強引に引きずってゆく。
 この子の見ているモノはどうやら人じゃねぇな。
 まだ新八は若ぇんだ。取り殺すのは堪忍してくれ。
 祖父は念仏を唱えながら新八と橋を渡り切る。
「ああ、見えなくなってしもうた……」
 新八は心底残念そうに溜め息をついた。
「お前が見たモノは人じゃねぇ。とっとと忘れるのが吉だぞ」
 それでも構うものか。人以外に恋したら駄目だなんて誰が決めたんだ。
 新八の瞳は熱く潤み、虚空に消えた白い女を見つめ続けた。

 それから一週間、新八は熱に浮かされた。
 橋での一件があったことから、心配した祖父は老女を連れて来る。
「婆様、新八は何かに取り憑かれでもしたんでしょうか?」
「いや、その気配はないねぇ。こりゃただの恋煩いさ」
「しかし、その相手が人外のモノだとしたら……」
 祖父は寝込む新八の顔を不安げに見下ろす。
「恋煩いはどんな薬もまじないも効きやしないからなぁ」
 婆様は、困ったように頭を撫でた。
「熱はほっとけばすぐに治まるさ。これは初恋に浮かされているだけじゃから。それから先はこの子自身が解決するしかねぇわい」
 そう言うと、よっこらせと立ち上がる。
「熱が下がったらこの子をわしの元に寄越しな。助言ぐらいはしてやろう」
「はぁ……」
 とりあえず判じ料を支払ったものの、祖父の顔から不安は拭い去れなかった。

 それから三日後の夕刻、新八は数機矢橋のたもとに佇んでいた。
 昼間にはあの婆様のもとを訪れ、助言をたまわっている。
 懐には忍ばせた一枚の手鏡。
 新八は自分が来てから、三組目の橋を渡って来る人たちを待ちわびていた。
「ええか、どんなに相手が恋しかろうが、お前は橋を渡ったら行かんよ。あくまでも自分の気持ちに対するお告げに耳を傾けるだけじゃからな」
 婆様いわく、新八が見たのは橋に祀られた女神とのこと。
 そんな神霊と思いを交わすには橋占(はしうら)が一番らしい。
 橋占は本来運命を占うものだが、今回は新八が抱く思いに対し、女神はどう思っているかを聞こうという算段だった。
 やがて一組、二組と、二人連れが橋を渡って来た。
 あと一組。新八は鼓動を募らせる。
 そして三組目が渡って来た。
 この時に話していた言葉がお告げとなる。
「子供に好かれてもなぁ……」
 そのようなことを話しながら、三組目は立ち去って行った。
 これが女神様の本音……。
 子供である自分は相手にもされてないってことか。
 新八は思わずその場から駆け出していた。
 初めての失恋に、拭っても拭っても涙は止まらなかった。

 それから五年の月日が流れた。
 あれ以来、新八は数機矢橋の白い女のことを口にしなくなっていた。
 祖父は何が起こったのか分からなかったものの、憑き物は落ちたようだと喜んでいたのだが……。
 実のところ、新八はあの日からも女のことを忘れたことがない。
 自分が振られたのは子供だからだ。
 ならば大人になってから今一度女神様に思いをぶつけてやる。
 そしてこの五年間、膨れ上がる思いを内に秘め、ひたすら堪え忍んで来た。
 時は夕刻。
 周囲は茜色に染まっている。
 もうすでに二組が橋を渡って来ていた。
 そしていよいよ三組目も姿を現わす。
 新八はその二人連れに耳を向けた。
「やはりそこそこの実入りがないとやっていけねぇよ」
 ガンッと、頭を殴られたかのようだった。
 新八は今、新米若衆として呉服問屋に従事している。
 それでも給金は自分一人でやっていくのが精一杯だ。
 そうだよな。金がなけりゃかんざしの一本も買ってやれねぇ……。
 その場を駆け出す新八の目からは悔し涙がこぼれた。

 さらに五年の月日が経った。
 数機矢橋のたもとに佇む新八の顔からは幼さが抜けている。
 店でも若衆から手代にまで出世していた。
 すでに自分が抱えている顧客も居るぐらいだ。
 当然給金も五年前とは比べものにならなかった。
 しかも何に使うわけでなく金を貯め込んでいるので、かんざしの一本や二本買うなんて造作もなく、着物だって仕立てられる。
 今度こそは心を射止めてやるぞ。
 懐に入れた手鏡を着物の上から握り締めた。
 一組目、二組目と橋を渡り、待ち望んだ三組目が姿を現わす。
 新八は期待に胸を膨らませた。
「装飾品より、一軒家の方がうれしいものさ」
 い、一軒家!
 そのお告げに新八は愕然とする。
 そ、そんな、いくら俺でもそんなの無理だ。
 さしものの新八も意気消沈し、とぼとぼと肩を落として岐路についた。

 それから二十年も経過した。
 新八は今や呉服問屋で支配という役職にまで出世していた。
 これは住み込みだったのが、自分の家から通えるようになる身分でもある。
 そう、新八はひたすら金を貯めて、とうとう小さいながらも一軒家を手に入れたのだ。
 この二十年間、白い女のことばかり想って来た。
 働き者で男前の新八を女たちは放って置かなかったが、そんなものには見向きもしない。
 そして自信を付け、再び数機矢橋に足を向けたのだ。
 さぁ、今度こそ手に入れてやるぞ。
 最早それは恋心というよりも執念と言えるだろう。
 いつものように二組が通り過ぎるのを待ち、ついに三組目がやって来る。
 新八は静かにまぶたを閉じた。
「あんたには負けたよ」
 うん? それだけ?
 意外な言葉に新八は拍子抜けしてしまった。
 三組目は談笑しながらとっくに橋から離れてしまっている。
 負けたからどうしたと言うんだ!
 けれどもう言葉を聞くことはなかった。
 その夜、酒を浴びるように呑み泥水していると、遠くから半鐘を叩く音がした。
 なんだ、うるせぇな……。
 新八は痛む頭を振りながら土間に下り、瓶から水をくんで一口飲んだ。
 そして戸を開けてみると、空が赤く染まっていた。
 火事か。
 しかし、その方向が数機矢橋だと思い当たると急に酔いが覚めて来る。
 まさか……。
 不意に沸き上がる不安。
 新八は弾かれるように駆け出していた。
 悪い予感は的中した。
 橋が、数機矢橋が燃えていたのだ。
 町人たちが河を取り囲み、火消しが橋を取り壊している。
 ああ、止めろ、止めてくれ!
 新八は作業をする火消しの背中に飛びかかるが、逆に地面に伸された。
「邪魔をするんじゃねぇ!」
 それでも新八は火消しにすがりつく。
「頼む、橋を壊さないでくれ! この橋は俺の生き甲斐なんだ!」
 だが火消しは新八を蹴り倒すと、大きな手斧を橋に振り下ろした。
 すべてが終わる。終わってしまう……。
 泣きながら、燃え盛り壊れてゆく橋を見届けることしか出来なかった。
 と、その時だった。
 赤々と燃え盛る橋に白い染みが生じたのだ。
「あ、あれは……!」
 見間違えるわけがない。
 二十年以上も恋い焦がれて来た、白い女だった。
 女は橋から河へと身を躍らせる。
 新八もためらうことなく河に飛び込んだ。
 そして凍てつく水を掻き、必死で女を捜した。
 するとすぐそばの水面に白い女が浮かび上がる。
 新八は女を抱きかかえた。
 女が目を開ける。
 新八は初めて間近で見た女の美しさに息を呑んだ。
 女の薄い唇が動く。
「私は橋に縛られた神。それを解くには橋を壊さなくちゃ駄目だったのさ」
 そうつぶやいた女の体が透け始める。
「でも、橋が無ければ生けられやしない。最終的に恋にとち狂ったのは私の方……だった……ようだね」
 女は一筋の涙と笑顔を残し、淡い光となって消え失せた。
「すまねぇ、本当にすまねぇ。俺が執着しなければこんな目には……」
 岸に上がった新八は寒さも忘れ、ただただ泣き崩れることしか出来なかった。
 
 それから一年後。
 匿名の寄付により、新しい橋が建てられた。
 橋の名は夫婦橋。
 寄付金と共に入っていた手紙には、橋の名だけ書かれていたという。
 あの火事の日以来、新八の姿を見たものは誰も居ない。

■捨丸奇譚

「時節を待ちて、取り返すべし」
 鬼女はそう捨て台詞を吐くと、欄干を蹴って夜の闇に溶け込んだ。
 残されたのは剛毛の生えた右腕が一本。
 藪彦は血糊の付いた刃をぬぐい鞘に収める。
 肩が上下している荒い息づかいは鬼との激闘をうかがわせた。
 息を整えながら切り落とした腕に近づく。
 そして拾い上げるとそのまま懐に押し込んだ。
 捨て置いても良いが他の者に災いがあってはな。
 鬼の台詞を思い出しながら重い足を引きずり帰路についた。

 どうしたものか……。
 帰宅してから泥のように眠り――朝方に赤子の泣き声に叩き起こされた。
 昨夜、鬼の血が染みついた衣に腕をくるみ放って置いたのだが、そこには豪腕の代わりに丸々と太った赤ん坊が泣いていたのだ。
 鬼の腕が化けたとでも言うのか。
 藪彦は刀を持ち出すと鞘から抜き取る。
 この赤子はあやかしだ。
 放置すればどんな災厄が降りかかるかもしれぬ。
 刀を振り上げそのまま切り下ろす。
 ……しかし刃が赤子に届くことはなかった。
 柔らかな頭髪に触れるか触れないかの距離で止まっていたのだ。
 藪彦の目がうろたえる。
 泣き止んだ赤子がその無垢な瞳を向けていたからだ。
 あーあーと手を伸ばし、藪彦の愛情を求めている。
 それは親に捨てられ孤独に育った藪彦にはまぶしいものだった。
 切れぬ。俺にはこの赤子は殺せぬわ……。
 刀を鞘に収めると赤子をいだいた。
 赤子はキャッキャッと笑い声を上げる。
 さて、どうしたものか。米のとぎ汁でもあればいいのだが。
 藪彦は赤子を育てるつもりで居た。
 もしこの子が鬼に育ってしまったら、その時こそ切り伏せれば良い。
 それまでは……まばゆい瞳を向けて欲しかった。

 鬼の腕が生じた赤子は捨丸と名付けられすくすくと育った。
 しかし鬼の血を引く割には華奢であり、病気がちだ。
 白い肌は日差しにも弱かった。
 父上。
 ある日、捨丸が藪彦に真剣な眼差しを向けて来た。
 相変わらず無垢な瞳ではあるが、今はおびえをふくんでいる。
 どうしたと問えば、奇妙な夢を見るのだという。
 夜な夜な美しい女性が現れ、自分は捨丸の母だと名乗った。
 女は藪彦の刀を持ち出すようにと頼み込む。
 あれがあるからお前を迎えに行けないのだと。
 そうか。
 藪彦は無表情で夢の話を聞いていた。
 とうとう鬼めが動き出したか。
 だが捨丸はやらん。
 むろん復讐もさせぬわ。
 父上?
 怖い顔でもしていたのか、捨丸がおびえた様子でうかがっていた。
 なんでもない。
 藪彦が頬を緩めると捨丸も微笑む。
 お前も気にするな。
 はい……。

 それから数日後、藪彦は物音で目が覚めた。
 誰かがこちらの部屋に歩いて来ている。
 この歩き方は捨丸か……。
 けれど普段よりも重々しい。
 藪彦は脇差しを引き寄せると掛け布団の中に隠した。
 襖が開く。
 薄目でうかがうと確かに捨丸に間違いなかった。
 捨丸はまっすぐこちらに歩み寄り――静かに刀を振り上げた。
 キンッ!
 振り下ろされた刀……かつて鬼の腕を切り落としたものは脇差しによって受け止められた。
 うつろな捨丸の瞳にはいつもの輝きはない。
 鬼に意識を乗っ取られたのか?
 捨丸!
 大声で呼びかけるが反応がなかった。
 そればかりか刀を振り回し斬りかかって来る。
 その太刀筋を紙一重で避け、捨丸の右腕を掴んだ。
 なのだが、その感触にぎょっとする。
 華奢な細い腕はどこへやら。
 捨丸の右腕はかつて切り落とした鬼の腕そのもののように太かったのだ。
 捨丸……。
 白刃が一閃し、弾き飛ばされた刀が天井に刺さる。
 そしてそのまま返す刀で捨丸を切り捨て――ることはできなかった。
 刃は首筋のところで止まっていた。
 捨丸が太い腕で藪彦の首を掴む。
 そのまま首を握り潰さんとばかりに力が込められた。
 脇差しが畳に落ち、突き立った。
 ……結局こういう運命だったのだな。
 藪彦は覚悟しまぶたを閉じた。
 これでいい。
 この俺がかりそめでも親の真似事ができたのだ。
 死んでも悔いは――。
 と、ふいに首を絞める手の力が弱まった。
 目を開けば、首を離した捨丸が後ろへとよろめいている。
 父上逃げて……逃げてください……。
 すると、まるで焦れたように捨丸の右腕が膨れ上がる。
 藪彦は突き立っている脇差しを手に取った。
 そのまま下段から上へと切り上げる。
 夜のしじまを悲鳴が引き裂いた。
 捨丸の腕だったものはまるで芋虫のようにくねっている。
 捨丸!
 藪彦は自分の袖を引き裂き、血が溢れ出す切り口に縛り付けた。
 父上……私は……。
 もう良い、すべては悪い夢だったのだ。
 気を失った捨丸をそっと畳に横たえると、腕に向き直る。
 脇差しを逆手に持ち――蠢く右腕に勢いよく突き刺した。

 以来、捨丸は母と名乗る女の夢を見なくなった。
 そればかりか日差しの下でも平気となり、褐色の肌へとたくましく成長する。
 藪彦に鍛えられた捨丸はのちに隻腕の剣豪として名をはせ、都の怪異と対峙してゆくのだが……それはまた別のお話。

■猫春雨(nekoharusame)

現実や日常の裏にひそむファンタジーの超短編小説や童話を書いています。
幻想と怪奇のあわいを得意とし、自サイトだけでなく、AmazonのKindle電子書籍や、文学フリマなどでも作品を発表しています。
また、ヒトヂカラ図書館として、読み聞かせをはじめ、児童文学にまつわる活動を実施。
ココナラでは、依頼者ご本人やそのお子さまが主人公のファンタジー創作も承ります。
他にも、オリジナルボードゲームも製作しています。
和歌山県在住。

twitter:https://twitter.com/nekoharusame
Copyright(c)2017 猫春雨 all rights reserved.